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おれの思考を支配する悪魔の言葉「それ意味ある?」

この呪いを解くために、意味があるってなんなのかまず考えてみたい。
僕がいう”意味がある”とは、まず金を得られることだ。金は定量的でわかりやすく、基本的にはなんにでも変換できる。時間とか能力を消費して、その対価として金を得る。金はなんにでもなりうるので様々な意味を担保する。だから金が得られることには意味がある。
その次に”意味がある”ことは、金を使わないことだ。金を使わないことは、同量の金を稼ぐこととほとんど同じ意味がある。
そしてその次に”意味がある”ことは、金を稼ぐための能力を磨くことだ。これはより多くの金を稼ぐための先行投資と言ってもいい、、、

と書いてきてわかったのだが、僕の”意味”に関する価値観は金に支配されている。
資本主義の典型的な奴隷である。僕が見出す金の価値は、金が”基本的にはなんにでも変換できる”からだと先述している。だが、上記を読んでいくと、どうにも金をより多く持つこと自体が目的化している。様々な価値に変換可能だから金に価値があるのであり、金そのものを持っていることには一切意味がないのにも関わらず、金それ自体を希求してしまっている。

ともすれば、僕がやるべきことは金の価値観の良い悪いの判断ではなく、もっと本質的に金をなにに変換したいのか、ということではないだろうか。

しかしながら金を持っていることには副次的な意味がある。生活に余裕が生まれるし、選択肢が増える。ただ、それらの選択肢を狭めて貯蓄してまで金を持ち続けることには意味がない。なぜなら金そのものには意味がないからだ。それに、現代社会において”金を持っている”という状態に辿り着くのは原理的に不可能だと僕は考えている。
社会にはモノが溢れ、それぞれの経済状況に合わせた商品がある。手取りで年収が3千万だろうが300万だろうが、その収入に合わせて最適化された価格帯の消費物が用意されている。
乗っている車が、食べているモノが、住んでいる場所が〜という違いがあるだけで、基本的にみんな時間に追われ、金に追われているのではないだろうか。
僕は金を、僕の人生を豊かにするための道具として使いこなさねばならない。金は手段であり、金を持っていること、また持っていないこと自体には意味がないということを、よくよく自分に言い聞かさなければならない。

金に価値があるのは他の意味になりうるからであり、金それ自体には意味がない。
どうも金自体に意味があると当たり前のように考えていたので、今後はしっかりと金と意味を見比べて生きていきたい。





補足

心理学の大家である河合隼雄著「心の処方箋」というエッセイ集みたいなものをたまに読み返すのだが、その中の面白い一説に”魂に従いなさい”という言葉がある。
そこでいわれる”魂”というのは無意識のようなもので、ある程度秩序だった意識の表層(心)のさらに奥底にある意味よりもっと手前の混沌とした領域を指している。

この”魂に従いなさい”という言葉は、バリバリ働いて実績も上げてきた仕事が生きがいだという男性が急に仕事に魅力を感じなくなってしまい、これまでの自分の仕事や業務に打ち込む同僚、そして仕事しかない自分の人生を俯瞰で見つめ、なんの意味も見出せず、希死念慮すら抱いてしまうようになったというエピソードを交えて語られる。

つまり、意味ですら仮初の存在であるということである。
僕の魂は意味なんかどうでもよくて、ただ金のみを求めているのかもしれないし、もっと全然別のものを求めているかもしれない。魂が何を求めているのかを見定める方法はその本では語られていなかったし、多分そんなものは存在しない。今まで抱いていた意味の幻想が瓦解して初めて、意味と魂の向いている方向が違っていたな、とそう感じられる程度ではなかろうか。それよりもこの話から得られる教訓としては、何か一つのことだけをよりどころにしてしまうと人は脆いということである。
いくつかの指針、信念、居場所と関係性を持ってフラフラと生きていくことこそが折れにくい人間の生き方ではないだろうか。そういう意味では仕事を転々とし、完全に棲み分けられた友人のコミュニティが複数あり、何よりもnoteで1記事ごとに全く矛盾した想いを吐き出している僕の今の生き方はそれなりに強靭なものなのかもしれない。経済的な強度はないけども。

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