見出し画像

アステロイドシティ

全く意味がわからん映画だった。見ている最中からシュールな雰囲気と色彩感覚、演劇の構成で細かに分割されているため退屈こそしなかったが、面白いとは感じていなかった。

あるいは演劇やアメリカ喜劇映画などの知識があれば少しは楽しめたのかもしれないが、私にその知識はない。では、全く見方がわからない映画だったのかと言われるとそういうわけでもない。

この映画は筋書きらしい筋書きがないことが狙いだったのかもしれない。

冒頭、車の不調から目的地のモーテルで修理を受ける主人公一行。同型の車の故障は2度見たことがあると車屋の店主に告げられる。いわく、75セントの部品の交換で済むか、駆動系をくまなく点検してどの部品を入れ替えようがエンジンが完全に壊れて廃車にせざるを得ない状態か。
しかし、主人公の車はどちらにも該当しない、訳のわからない壊れかたをし、ウネウネと動き回る謎のパーツを吐き出して完全に沈黙する。

これは映画の冒頭にあるかなり象徴的なシーンだったと今になって思う。提示された2択に収まらない想定外の第3の選択肢。これを物語において演出し、視聴者を困惑させる愉快犯的な映画をこれから流しますよ、という意思表示だったのかも。

真相はわからないが、ウェスアンダーソンはこの映画において、少なくとも劇世界の中でストーリーを物語ることを放棄したのではないだろうか。
ちなみにこの後も映画はナンセンスかつポップに進行する。母を無くした娘が父に”私たちは孤児になったの?”と意味不明な質問を投げかけたり、サボテンに登ろうと目論む青年や細長い宇宙人、唐突に始まる無意味なミュージカルが上演される。

これもう分かんねぇな、と僕が思いはじめたタイミングで、どうやら主人公も同じ感想を抱いていたようで(というのもこのアステロイドシティは劇中劇なので主人公たちはこのナンセンスな世界観を演じているに過ぎない)幕間に劇を飛び出し、現実世界でタバコを燻らす演劇世界における妻(登場シーンをバッサリ切られたマーゴットロビー)と話をする。ここの会話で、本来の劇で語られる予定だった一応オチのついた話が語られ、演劇が途方もなく破綻していることが明かされ、うろ覚えだが脚本家が死んでいた(死んでないかも)ことが判明する。

まぁ、とにかく一貫性のない物語を作りたかったのかな、ということが伺える物語だった。それがなんとなく自分の中で腑に落ちたところで、じゃぁ面白かったのかと聞かれるとそうではないし、誰かにお勧めをしたくなるようなものでもない。

不思議な映画だったなぁ、という感想が残る程度である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?