ポストセカイ系という言葉

新海誠天気の子以降、ポストセカイ系という言葉がめちゃくちゃ増えた。元からあった言葉なのだろうけど。

ポストセカイ系というだけあり、これは当然セカイ系を踏み台にした言葉である。セカイの命運が主人公と、あるいはその半径数メートルに集約された物語。主人公の決断に世界の命運が委ねられ、結局世界が選び取られる物語。エヴァとかイリヤの空、UFOの夏みたいな。

で、この物語を超克して、完全に自分たちだけのセカイ、つまり世界そのものよりもセカイの優先度が高まった結果、自分の周囲のために世界を犠牲にしてしまえる主人公が登場した。天気の子では、止むことのない雨で東京が沈み、デデデデでは一人の女の子を救うために世界そのものが書き換えられる。このタイプの気質の主人公が紡ぐ物語がポストセカイ系とされる。

しかし、これは果たして本当に“ポスト”セカイ系なのだろうか。

休憩時間が終わるので結論から言うと、ポストセカイ系は多分セカイ系と何も変わっていない。

現代の認識において世界がセカイとほとんど同質になっただけだと思う。少なくとも僕にとってはそうで、あるいは思想的にもそうだ。
あの時代の人間には資本主義と共産主義のイデオロギーに世界が二分された経験があったろうし、1999年には世界が滅ぶかもしれないという予感が微かながらにもあったはずだ。

今の時代にはそのスケールの物語はない。ポストモダン化し、巨大な思想は解体され分類され、それぞれに批判された。そして何よりも世界は滅びなかった。コロナウイルスのパンデミックですら世界は揺るぎもしなかった。

もはや世界を揺るがす事件の存在が、フィクションですらリアリティを持って僕に迫っては来られない。だから世界かセカイか、という問いかけ自体が成立しない。セカイと世界の大きさが限りなく近くなってしまったからだ。

要するに天気の子もデデデデもセカイ系の枠を超えていないと僕は思う。セカイ系というジャンル自体が定義の曖昧な領域なのでどうでもいいけれど。

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