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『劇場版 レヴュースタァライト』64ツイート分の紹介と布教と感想を兼ねた何か

劇場版『レヴュースタァライト』めちゃくちゃ良かった!
普段はそこまで同じ作品をリピートする方ではないのですが、暴力的なまでの映像の魅力と初見では完全に捉えにくいストーリーのおかげで、今のところ三回観ました。

「意味不明」「謎のキリンに"わかります"って言われたから観に行ったのに何もわからなかった」「シリーズ履修してるのにわからない」「ラブライブだと思ったらエヴァが始まった」などの叫びと、作品の熱量にあてられてスタァライトされてしまった人々の驚喜の声(なお、「スタァライト」とは受動態で使う動詞なのだ!)、否定と絶賛が一部オタクのあいだで渦巻く特異な作品なのですが、そもそもオタク以外にたいして観られていない!
なので微力ながら、ツイートするにはちょっと長い、紹介と布教と感想を兼ねた何かを書きます。

①予習用の過去作ストーリーダイジェスト
②ネタバレなし新作紹介
③(最下部にネタバレ注意の上で)復習用の新作ストーリー要約と自分の考えまとめ

この3パートに分かれます。最後の部分はすでに観た人向け。
ここは鑑賞後に読んでね。

まずは完全新規の方向けに、これまでのおさらいから。以下、TVシリーズおよび再生産総集編『ロンド・ロンド・ロンド』のネタバレを含みます。新作ネタバレはなし。
※「劇場版に興味があるけど予習する時間はない!」という人向けの「これまでのあらすじ」。予習に二時間割ける人は「再生産総集編」を観よう!

★★★★★★★★★★★★★★★ここから★★★★★★★★★★★★★★★

舞台は劇場版のちょうど一年前。
主人公・愛城華恋をはじめとする、聖翔音楽学園俳優育成科に通う二年生たちは怪しいキリンの主催する「勝てばトップスタァとなりどんな望み通りの舞台の主役にもなれるオーディション」に参加する。
そのオーディションの内容とは舞台少女の心象風景を映したような非現実的世界で歌い踊りながら戦う「レヴュー」をおこない、金ボタンをはじいて相手の上掛けを落とすこと(ざっくり説明)。

聖翔音楽学園では三年間を通じて毎年「スタァライト」という同じ演目の劇を演じることで作品への理解を深め、舞台を進化させて実力を磨いていくことになっている。
しかし、生徒のひとり・大場ななは昨年の一年生の頃に学園祭でみんなで演じたときの「スタァライト」が忘れられず、これまでキリン主催のオーディションに毎回勝ち抜いて昨年からの一年間を何度もループさせることでまったく同じ「スタァライト」を再演し続けていた。
だが、転校生であり華恋の「運命」の幼なじみである「飛び入り」の神楽ひかりが今回のオーディションで大場ななを打ち破ることで再演は止まる。
オーディションの最終戦にはついに華恋とひかりが残ることになるが、ひかりとふたりでトップスタァになることをずっと夢見てきた華恋に対し、ひかりはこの「オーディション」とは舞台少女たちの輝きを奪い燃料にして成り立つものだという真相を知っていた。
ひかりは級友の、なにより華恋の輝きを奪わないために自分ひとりの輝きを代償に差し出すことで自ら塔に幽閉されたったひとりで「スタァライト」を演じ続け、皆を守ることを選ぶ。
現実の世界から突如失踪したひかりを探すうちにやがてこのことに気づいた華恋は、非現実のオーディション会場に再度戻り、ひかり一人で演じる「スタァライト」の世界に飛び入りする。
そのことでひかりの自らを犠牲にした一人舞台は途切れ、華恋は無事ひかりのことを助けられた(はずだったが……!?)。

★★★★★★★★★★★★★★★ここまで★★★★★★★★★★★★★★★

さて、新作劇場版の紹介に移ります。
ネタバレ配慮で具体的な内容には触れません。

TVシリーズ時点での『スタァライト』は「学園部活ものアニメとしてのウェルメイドさと『ウテナ』的な攻めた演出の按配が絶妙」という印象の良作でした。
このジャンルのフォーマットで許されるなかでの最大の変化球を狙ってきたような奇抜さに、『まどか☆マギカ』を思わせるようなよく練られたお話のつくり。
2020年公開の再生産総集編『ロンド・ロンド・ロンド』では、TVシリーズを元に様々な手を加えて、狂言回しである大場ななとキリンの語りを要所に追加(実は設定をわかりやすく説明してくれてるので、改めておさらいするといろいろ「わかります」)。
さらに、ラストに新作劇場版へと繋がる強い引きを持ってきて、期待を煽りました。
僕も再生産総集編から入った。

そしてついに公開された待望の劇場版新作ですが、ここに至って「よくここまで尖った作品をつくったな……!」と良い意味でびっくりしました。
「学園部活ものアニメ」として想定される無難な範囲を完全に超えている。

本作には三幕構成のような「出来事が理路の通った論理に従って連続で並べられた強固な構造をもつ物語」は存在せず、代わりに少女たちの「関係性」とエピソードとそれを包むより大きなエピソードだけがある特異な構成。いちおうストーリーらしきものはあるものの、物語の上位概念として「関係性」があるような、物語が「関係性」に隷属するような作品。
その意味で、まさに百合をやるための映画と言っても過言ではないのだけど、小さな日常を描くタイプの作品とは真反対の「ドラマ」を描けているところがすごい。物語はなくてもドラマはあるんだよ(ちょっと通じにくい説明かもしれない)。
誤解が起きないように書いておくと、ここで「ない」といってる物語とは台詞や出来事で明示的に語られるストーリーのこと。
一方で、本作では象徴的な言葉や映像モチーフが大量に散りばめられており、それは単なる意味深なこけおどしではなくて、むしろかなり明確に解釈できるようわかりやすく描かれているので、丁寧に追っていけば「ああ、これはこういうことを言いたい作品だったんだね」というようになっている。
ここが『スタァライト』の絶妙なバランス感覚。
メタファーに満ちた映像の洪水に初見こそ圧倒されるものの、実はシンプルでよくまとまった作品だという印象です。

なお、古川友宏監督はTVシリーズ放映終了時点でのインタビューで「(この作品はストーリーの作品ではなく)キャラクターをお客さんに届ける作品」という極めて重要な話をしていて、作中最大の大ネタですら作品にとってある意味「関係ない」とまで言っている。 
https://tokyo.whatsin.jp/313186/2

これは単にキャラ人気が大事とかそういう話ではないと思っていて、なぜならTVシリーズはむしろ凝ったストーリーがかっちり組まれた作品なんですね。
そのTVシリーズの時点から本質的には「ストーリーよりキャラクター」という趣旨の発言をしているということを踏まえると、新作劇場版での「物語がキャラクターの関係性に仕える」ような形での発展のさせ方は必然だったのかとも思えてきて面白い。


そして、この映画の胆である映像と音楽、演出について。
これはもう文章で大げさな修辞を並べても嘘っぽくなるばかりなので、観て判断して頂くのが一番良いんですが、TV、再生産総集編と比べてもクオリティが飛躍的に向上している。
そして、ただ作画が良いだけではなく、「やりたい放題」とでもいうしかないはっちゃけた演出の数々。
想像力の限りでなんでも描けるアニメという媒体に求めていることのひとつはこういう自由さなんだよなあと思わせるシーンがぎっしり詰まっていて最高です。
そして、『ロロロ』のラストでも匂わされていましたが、流血ですよ、流血!
ブシロードのアニメで血が流れるなんて!!
絵面の刺激が強い……。

画面比率について。
『スタァライト』のTVシリーズはビスタサイズ、再生産総集編および本作はシネマスコープ。
さらに、再生産総集編の時点ではシネスコといっても(新規パートを除いては)TV版の映像を元にシネスコに再編集されていたわけだけど、今回の新作はシネスコ前提での制作。
それもあってか、シネスコの横に長い画面を生かした構図がとにかくビシバシ決まっている!
格好良い絵ってこういうことだよなあと思わせるショットがばしばし続く。
作品の大きな特徴である劇伴と挿入歌が一体となった音楽は画面とがっつり組み合っていて、音響も今作では5.1chとなっており、劇場作品らしい仕上がり。

劇伴と挿入歌が一体となった独特の作りの音楽も健在で、さらに幅が広くなっているように感じる。それからとにかく見得を切る場面などの台詞回しが大仰で、それがまた抜群に決まっている。
その芝居がかった格好いいやり取りの応酬はまるでシェイクスピア演劇かと思うほど(ちなみにシェイクスピア、純那ちゃんの台詞で頻繁に引用をされるほか、ひかりがイギリスで一度失ったきらめきの重量を「マクベスの文庫本」の重さに例えるなど、ちょいちょい作品内で参照される)。

映像・音楽・芝居が渾然一体となって、非日常的な陶酔と高揚感をもたらすこの感じは、映画館という「場」との相性も良いと思う。
『スタァライト』を観てるとだんだん「舞台って、特殊なルールのフェンシングのことか……?」と混乱しそうになるけど、歌と踊りで少女たちが誇りをかけて激突する、これこそミュージカルの高揚感そのものですよ!!
特殊なルールのフェンシングをやりつつも、やはり本質は少女歌劇だったのだ……。

「移動して、目的を果たす」というだけのシンプルな話を全編クライマックスのようなテンションでぶち抜くのは、表現こそちがえど『マッドマックス 怒りのデスロード』のような作品が近いのではないか。
あるいは他の有名作でカジュアルに例えるなら「説明台詞をばっさりカットした『シン・エヴァ』」が近いかもしれない。
近いというのは主には内容の話なんだけど(ある意味でともに「死んで再生する」話だ)、ランドマークのタワーや線路といった表面的なモチーフも重なっている。


あんまり作品の奇抜さを強調して語ると斜に構えた人に「こんなの全然たいしたことないよ」なんていじわるなことを言われてしまいそうで、この手の抽象的で過剰な演出や作劇を嫌う人に「うわ、しょーもな」と言われるのが怖くもあるけど(そしてぼくも普段はむしろかっちりした構成の物語を褒める方である)、
この映画が前衛アート作品としてではなくブシロードのばりばりメジャーな商業コンテンツから出てきたというコンテクストが大事で、ジャンルのなかで観客に許される境界をぎりぎり超えたところを攻めて遊んでいる感。
それでいてエピローグの爽やかさと心地よい余韻は「少女たちの青春部活ものアニメ」へ一般に期待されるものにも完璧に応えていて、ひとりよがりになっていないところがさすが。

最後に、作中のキリンがある意味視聴者のメタファー(悪い百合厨!)として描かれていることはTVシリーズを見てすぐ気づく点だけど、今回も舞台と現実世界を隔てる「第四の壁」を意識させる演出、ありましたね……。
これも映画館で観たい理由のひとつ。
ぜったい大画面で観てほしい。

まとめると、「過去作よりさらに飛躍的に踏み込んで、ジャンルの枠組みの限界まで挑戦する意欲作。考えようと思えばいろいろ考えられる作りながら、映像と音楽と百合が畳みかけてきてとにかくすごい。嫌う人、受け入れられない人も確実にいるけど刺さる人にはめちゃくちゃ刺さる。興行収入云々ではなく、劇場で観るためにつくられた作品なので、興味がある人は配信を待たずに必ず映画館に足を運んで観てほしい」というお話でした。

ここから先は劇場版『レヴュースタァライト』自分なりのストーリー要所まとめと考えたことを書いておきます。これ以降なにもかもネタバレ全開です。










★★★★★★★★★★★★ここから本編ネタバレ★★★★★★★★★★★★
★★★★★★★★★★★★ここから本編ネタバレ★★★★★★★★★★★★
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時系列的にはオーディションが終わってから一年後が舞台。
仲間たちは各々の進路を決めているが、華恋だけはいまだ進路を決めかねていた。
神楽ひかりは結局自主退学しており、聖翔音楽学園にはもういない。
その頃、聖翔音楽学園は華恋たち99期生が「スタァライト」の第101回公演に向けて動き始めていたが、脚本はまだ未完の状態である。
オーディションからちょうど一年後である五月十四日、99期生俳優育成科の生徒たちは、プロの舞台の見学の機会に浮き足立っていた。
しかし、そんな皆に対して香子はいつの間にかトップスタァじゃない自分を受け入れていると指摘して「しょうもな」と言い捨てる。

舞台に向かう列車の中で、突如大場ななの「皆殺しのレヴュー」に巻き込まれた、華恋とひかりを除く全員がばななひとりを相手にあっけなく破れ、(舞台演出としての)「死」を迎える。

そこから、『ロロロ』の結末で描かれた通り、途切れた再演のだれも観たことのない続き、「ワイルドスクリーンバロック」が開演する。

それからはそれぞれのレヴューが繰り広げられるが、ひかりはまひるとのレヴューを通して華恋に向き合うことを決め、華恋を待つ。
一方華恋は線路を通りひかりに会いに行くが、そのあいだ、華恋がこれまでのひかりとの関係に縛られていることを示すように幼少期から小学生、中学生など過去のエピソードが劇中に次々と挿入される。

ついにひかりに再会できて喜ぶ華恋。
しかし、そこでひかりに「すでに、自分たちは舞台の上に上がっている」ことを突きつけられた華恋は、舞台のもつ怖さと「自分にはひかりしかいない、ひかりとの運命の舞台のことしか考えていなかった」と気づいたことによるショックで唐突な死を迎える。
泣きながら悔やむひかりだが、そこで子どもの頃にふたりで観たスタァライトを思い出す。
記憶の中で幼い二人が観劇しているのは、今の十七才くらいの見た目の華恋とひかりが主役を演じる戯曲「スタァライト」。
そこではちょうど華恋がひかりを看取る悲劇のクライマックスが演じられていた。
ひかりは眩しすぎるステージに気後れするが、華恋が臆することなくまっすぐに「一緒にスタァになろう」と言ってくれたから舞台少女としてやってこれたこと、自分もまた華恋の輝きに目を奪われてファンになってしまうことが怖かったことを思い出す。
ひかりは、棺桶を思わせる床を開き華恋の遺体をはるか下の地上まで突き落とすことで、華恋を「再生産」させる。
古い肉体を、過去の思い出を燃焼することで再び「舞台」に戻ってきた華恋に、ひかりは「ここが舞台だ、愛城華恋!」と告げる。
華恋とひかりが一年前に書き換えた運命の舞台の終わりの続き、新たな最終章であった「ワイルドスクリーンバロック」は華恋の最後の台詞にて本当の終わりを迎える。
その台詞とは「わたしも、ひかりに負けたくない」。
塔は折れてポジションゼロを示し、華恋の舞台衣装にもポジションゼロを象る胸の傷。
いつの間にか全員が集まり晴れて上掛けを放り投げ、エンドロールでは卒業後の成長した舞台少女たちのエピソードが示される。
そしてエンドロール後のラストカット、華恋が現実の世界で新たな「オーディション」に元気に挑む姿。
「愛城華恋、みんなをスタァライトしちゃいます!」の決め台詞で終幕。

★★★★★★★★★★★★ここからもネタバレ★★★★★★★★★★★★★

ここから自分なりの受け止め方を走り書きで。
ロリ華恋の「舞台の上ではどんな奇跡だって起こる。どんな自分にだってなれるの」
キリンが華恋に言う「あなたはこの道(線路)の先に自分の舞台を見つけなくてはなりません」
⇒このふたつが、新作劇場版のテーマ(言い回しはうろ覚えなので正確ではないです)。新作劇場版は、言ってしまえばこれだけのことを二時間にわたって繰り返し変奏している。

「舞台=(これからの、まだ決まっていない自分自身で切り開く)人生」というのはわかりやすい比喩。
「列車は必ず次の駅に」はライフステージの移り変わりとも。
こうして言葉にしてしまうと途端にチープに感じてしまうけど、作品では徹底して言語化を避けてイメージに委ねることでそれをうまく回避できている。

「再演」の果てにあるのは舞台少女の死。それをすでに見ていたばななは一番最初にこのことに気づいていた。『ロロロ』ラストの追加パート。
つまり、かつては再演を繰り返していたばななが真っ先に「生まれ変わり」の必要に気づいたことになる。
ばななの台詞「これはオーディションではない」とは、決められた役を勝ち取るためのレヴューではないという意味合いと捉えました。
そう考えると、「皆殺しのレヴュー」の全滅イベントは皆の強制生まれ変わりを促したと受け取れる。

華恋はまだひかりとの運命の舞台のスタァライト(つまり、前回のラストシーンの続き)に囚われている。
しかし、華恋自身がここから前に進むためにはひかりを追いかけているだけではなく「ライバル」になる必要があった。
この「ライバル」の関係は他の舞台少女たちのレヴューにも出てくる。

ワイルドスクリーンバロック①双葉×香子
双葉が香子を追いかけるだけではなく、「ライバル」になるためのレヴュー。
エンドロールでは香子も双葉のバイクを乗って出かけており、香子の自立も思わせる。
めちゃくちゃ良いエピソードなんだけど、バイクのカウルって何万もするくらい高いのにただのプラスチックの外装だからこかすとすぐ割れるし、打ち所が悪いとレバーもウィンカーもマフラーもひしゃげたり傷ついたりして最悪ひとコケ十数万コースだよ!エンジンやフレームにダメージがあるとさらに(アニメのキャラを脅してどんどん不安にさせる悪いオタク)

ワイルドスクリーンバロック②ひかり×まひる
ひかりの「生まれ直し」、再生産。
「華恋の舞台から逃げた」ということにここでひかりが向き合う。
レヴューの最後で高所から落ちるのは華恋の落下の反復。
なお、『スタァライト』はTVの頃から死と再生がモチーフとしてずっとある。
華恋がひかりに東京タワーから突き落とされる導入からしてそうだし、新作劇場版での床の棺桶もそう。
また、一年前には華恋に執着していたまひるも、自分自身の輝きに向かうようになっている。
最後、次のシークェンスへ移行する直前のまひるの発砲のタイミングが完璧すぎて最高。

ワイルドスクリーンバロック③純那×ばなな
純那ちゃんが名言botをやめて自分の言葉で語るのも、ばななの与える役を否定して今の自分がスタァだという自覚を持つのも、「自分の舞台」というテーマに直結。
狩りのレヴュー冒頭で「いつかは……」と逃げを打つ純那をばななが断罪するのも、「わたしたちはもう、舞台の上」というキーフレーズにつながる。
ところでレヴューソングのタイトル「ペン・力・刀」って最高だな……。
ばななが再演を繰り返してまで届きたかった、触れたかった眩しい輝きのなかで戦うのもエモい(TVシリーズ七話「大場なな」)。

ワイルドスクリーンバロック④真矢×クロディーヌ
直球で「ライバル」がテーマ。
孤高のトップスタァを気取っていた真矢はクロディーヌの存在の必要を認め、
クロディーヌも真矢に肩を並べるように、これからも競い合うライバル関係でいることが示される。
悪魔と契約して、「(時よとまれ、)おまえは美しい」と言わせるのはゲーテの『ファウスト』のオマージュですね。
ちなみにこのシーン、原典では主人公ファウストの埋葬時のものである。

そのとき、おれは瞬間に向かってこう言っていい、「とまれ、おまえはじつに美しいから」と。おれの地上の生の痕跡は、永劫を経ても滅びはしない、――こういう大きい幸福を予感して、おれはいま最高の瞬間を味わうのだ。
ゲーテ『ファウスト 悲劇第二部』(手塚富雄訳、中公文庫)


ワイルドスクリーンバロック「最後の台詞」華恋×ひかり
「わたしも、ひかりに負けたくない」
ひかりとの運命の舞台の話をする華恋に「それは思い出? 台詞?」と迫るひかり。
華恋だけがまだ自分の舞台に上がれていない。
ひかりを追いかけるのではなく、自分が舞台の上に立つ必要がある。
床から華恋の死体を落とすのは言うまでもなく「埋葬」。
古い肉体を燃焼して、新たに生まれ変わるのだ!
ここで過去の華恋も燃やされている。
なお、幼少の頃、華恋と観た舞台で輝きに折れそうだったロリひかりは「一緒にスタァになろう!」と華恋に言われることで
舞台少女として生まれ変わった、ということをひかりは口にしている。
また、ひかりはイギリス時代に華恋との「運命の舞台」のために「オーディション」に参加し、破れ、そこから「きらめきの再生産」を遂げている(TVシリーズ八話「ひかり、さす方へ」)。
「再生産」によって生まれ変わっているのは華恋だけではないのだ。


ポジションゼロ=舞台の中心、主役の立つ場所。
華恋の衣装の胸の傷は「常に自分が舞台の中心」となったことの現れ?

華恋とひかりの髪飾りはロリ華恋が台詞で語るところによると「運命の舞台のチケット」。
ラストシーンで外れているのは「ふたりの運命の舞台(と思っていた)ふたりのスタァライトから解放されてライバルとしてその先へと歩み始めたから」という見方もできる、かも。

上掛けを全員で放り投げるのはもちろん「卒業」のイメージ。
全員が「一度死んで、生まれ変わる」ことを達成したからこそ迎えることのできた大団円。

余談。
トマトが「禁断の果実」ならあれを食べると「わかります」状態になれる???
冒頭、キリンがもう終わったのかと思って「まに、まに、間に合わない!」と泣いていたのは「新章」からワイルドスクリーンバロックまで一年間も間が空いていたから、かも?

オチなし。おしまい。

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