物議は「かます」な

プロと素人の違い

「その服、全然イケてるよ」

全然という言葉の後に、肯定的な意見を述べるという用法に、大人になってから抵抗があった。

全然だめ。全然できていない。そう否定的に使ってきたから、肯定的な意味に使われることに抵抗があった。

ところが違った。金田一京助のエッセイだったかに、その反対を書いていた。

「全然とは、全く然り、その通りだという意味だから、肯定的な意味に使われるべきだが、最近では全然似合っていないなど、否定的に使っておる。若者言葉けしからぬ」という内容であった。

そもそも否定的な使われ方があったが、それも元々間違いであったというのだ。

言葉は生き物である。どんどん意味が変わるし、使い方も異なっていくものであるのは、よくわかる。つまり正規のものという概念自体が疑わしく、変化していくという前提に立つことの方が、むしろ言葉を理解していくことになるのだ。

ところが、だ。

あえて言いたい。

素人仕事と、プロの仕事には明瞭な違いがある。

例えばテキスト。国会議員のブログ記事を見ていて、

「実は、これは違くて云々」

マヂで? 違くてって、若い人がタピオカ飲みながら語る言葉じゃないのん? 我々の税金で飯食ってる、我々の代表の言語がそうなの? それって、ナウいの?

「ちゃんとした日本語」という定義自体なくて、常に変わっていくものであると、ついさっき確認したが、あえて訂正する。「ちゃんとした日本語」は存在する。

例えば、悪名高き、ら抜き言葉。

見れてない。食べれない。寝れてない。

なんとなく、自分はむず痒くなるし、むず痒くならない人のテキストは、やっぱりむず痒い。

特に「見れてない」は「見えてない」という事実を、なんとなくズラした印象を受けるが、結局論点が見えにくくなっている。まさに見えていない。

素人仕事と、プロの仕事の違いを、納期や責任とか、そういう重めの話を抜きにした時に見えるのは、やはり広く認められるだけの品質を確立できるのかどうかではないだろうか。

言葉はそもそも生き物だが、そんなに簡単に変化しない

映画を紹介している動画をyoutubeで見たが、配信者がずっと、

「物議をかました作品」

という表見を使っていたことに驚いた。

問題点を話し合っているうちに、議論が醸し出された「物議をかもす」、ではなくて、「かます」なのだ。

なーんで、そうなるのか。推理してみた。

考えてみた。意見を出し合って、自分とは違う意見を聞いて、なるほど、その意見は面白いねぇという経験がない人がいたとする。

彼にとって、議論とは自分の主張を相手に認めさせるかどうかの勝負だと誤解している。そうなるの、はったりをかまして、相手の虚をついたり、言葉尻の揚げ足を取ることも必要になるだろう。

つまり議論=口論=はったりみたいに、主張も「かます」。

という、推測が成り立つのではないだろうか。

物議をかますという言葉は、やっぱり動詞としておかしい。それがおかしいと思えるかどうか、ではなく、おかしいと思っている人が圧倒的多数である以上、日本語の動詞として適切な使用方法ではないというべきなのではないだろうか。

実際、自由に言葉は使っていいし、そうあるべきだろう。しかし自由な使い方よりも、最終的に優先させられる羽目になるのは、言語そのものが意思疎通のための道具であって、通じないのならば、それは間違った使い方でしかない。全然、自由ではない。(うわ、否定してもた)。

新しい表現として、「物議をかま」してもいいだろう。しかしやはり意味が通じないし、議論=口論と思っているのなら、それもやはり誤解でしかない。

自由な日本語を使っていくことが正しいと譲らないのなら、それは問題だ。

実際「チョベリグ」を使っている人が、現代どれだけいるのか。いたとして、彼が日常、それを使っていたなら、周囲は彼のことを相当ちゃらけた人間だと思うだろう。それが誤解であることが判明するまで、やはり無駄な時間がかかることになる。

だから、自分でテキストを書く場合、怖いのは、誤用がないか、勘違いをしていないかということ。そういうことを気にせず、自由に書く覚悟などない。

なぜなら、自分の感じた温度や質感で、適切に読み手に伝えたいからだ。

そこに別段、新しい表現など必要はないと思っている。

先人たちが積み上げてきた結果の、月並みな、ありふれた日本語で充分強力である。

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