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デプン僧院

1998年8月25日。チベット滞在3日目の午前中はラサの北西12kmにあるチベット最大(あるいは世界最大だったかも?)の僧院、デプン僧院へ向う。昨日訪れたセラ僧院と共に仏教大学であったデプン僧院は、1416年、ツォンカパの弟子のジャムヤン・チュウギ・タシ・パンデン(1379~1449)によって建立され、1560年にダライ・ラマ2世ゲンドゥン・ギャツォがガンデン・ポタンを建てると、それ以降、ダライ・ラマ5世ンガワン・ロサン・ギャツォが1649年にポタラ宮に移り住むまで歴代ダライ・ラマの居城となっていた。最盛期にはツォクチェン(大集会堂)やガンデン・ポタンとともに7つの学堂があり、一説には1万人の僧侶がいたとも言われている。現在では4つの学堂が残っており、最も規模が大きいのはロセリン学堂、次にゴマン学堂、デヤン学堂と続く。ここでは主に顕教が学ばれ、それを修めた僧達はンガクパ学堂で密教を学ぶ。
ゴマン学堂には、戦時中、日本が内モンゴル方面への進出の足掛かりとして設立した興亜義塾の三期生であった西川一三が下っ端僧として滞在していたことがあった。彼は1943年に内モンゴル奥地のトクミン廟を出発し、寧夏~西寧~ツァイダムを経て1945年にラサに辿りついた後、1946年にロプサン・サンボーというモンゴル僧に偽装してゴマン学堂の下にある地方班堂ハムドン・カンツァンに所属し、そこの郷土班堂ジュチェ・ミツァンの寮で暮らした。当時の様子は西川一三著「秘境西域八年の潜行」に詳しい。また、同じ興亜義塾の二期生であり、同じようにラサに滞在していた木村肥佐生とのカム(東チベット)紀行も面白い。現在は岩手の盛岡に在住している西川一三氏は、2001年に東京で開催された「日本人チベット行百年記念フォーラム」に来られていて、見に行っていた私は本人の口から当時のチベット滞在談を聞かせてもらったのだが、その昔、カムの地でとんでもない目にあった西川氏は日本のチベットフリークが会場一杯に駆けつけている中、「しかし私はチベット人が大嫌いです」と言ってのけたので爆笑させられた。
さて、朝の9時に待ち合わせをしていたラサのボッタクリ旅行会社(ちなみにその会社は中国国際旅行社西蔵分社“CITS”という)のガイド兼監視役はタクシーに乗り込むと、
「今日行くデプンは遠いので、タクシー代とあわせて300元必要です。」
とぬかしやがった。
ガイドブックによれば、ミニ路線バスで行くと片道2元、そして外国人拝観料が30元。いくらタクシーとは言え、「あまりにボリすぎるのでは?」と思ったものの、ここで相手の機嫌を損ねると明日からのギャンツェ行きの具合が悪くなる。カンパ・ラを越え、ヤムドク湖を経由するバスはないうえ、290kmの道のりをランドクルーザーでぶっ飛ばさないとギャンツェには行けない。また、行って来られたとしても今度は期日までに日本に帰れなくなる。ここはグッと我慢するしかない。
タクシーはラサの町並みを離れるとしばらく田舎道を進み、山の方へと向かっていった。ちらほらと塀にヤクか牛の糞を乾してある石造りの家が点在している。デプン僧院に到着する少し手前、右手に少し小ぶりの僧院が見えてきた。ネーチュン僧院である。ゲルク派、ニンマ派、ガギュ派合同の僧院で、ダライ・ラマ政権時代はチベットの国運を決定した政府神託官、ネーチュン・クテンがいた。僧院の正式名称はネーチュン・ドルジェ・ダヤンリン(金剛妙音の島)と呼ばれる。17世紀以降、ネーチュン僧院はチベット政府の保護下におかれ、僧侶たちはチベットの重要な護法神ペハル・ギャルポとの霊的交流を毎日規則的に保ち続けるように義務付けられていた。ダライ・ラマの要請によってたびたびトランスの儀も行なわれた。1959年のチベット民族蜂起とそれに続くダライ・ラマのインド亡命と共に神託官たちもインドへ逃れ、本山とは別に現在はダラムサラ、マクロード・ガンジから少し下ったところ、亡命政府の役所が集まっているカンチェン・キションのそばに再建されている。せっかく来たのだから立ち寄りたいのはやまやまなのだが、もちろんそんなオプションなど用意されていない。タクシーはネーチュンを無視して先に進む。
デプン僧院に着くと、集まっていたチベット人巡礼者に続いて各学堂を巡った。僧院の造りは、昨日訪れたセラ僧院とあまり変わりはない。学堂は末広がりの安定感のあるどっしりとした石造の建物。入り口には朱色の太い柱、垂れ下がっている黒い幕には白く吉祥の印タシ・タゲが描かれてある。屋根の上には両側に鹿を従えた法輪が金色に輝いている。それにしても、さすが世界最大の僧院である。その規模は大きかった。チベット人巡礼者たちは聖遺物を通り過ぎる際には必ず自分の右肩を向けて時計回りに進んでいく。私もチベット仏教に敬意を表してそれにならったのだが、中国人ガイドは全く無視して平気でそれらの右側を歩いていた。中国による民族蜂起の弾圧と文化大革命によって徹底的に破壊されたのだが、いまでは再建が進んでいるようだ。しかし、ここもまた僧院の大きさに対して僧侶の数が少な過ぎる。中国政府が僧侶の数を制限しているのは本当らしい。
僧院内を巡り歩いていると、僧坊の傍らにパラボラアンテナの先にヤカンを取りつけた奇妙な道具があった。聞いてみると、太陽熱を集めてお湯を沸かす道具らしい。高地にあり、水の沸点も低いチベットでは薄い空気を突き刺して刺し込んでくる強烈な太陽光線だけで湯が沸くのだ。帰国して会社に行って写真を見せたら大いに受けた。「すごい所」だと。

裏山はセラ僧院同様、岩ばかりの禿山であり、そこに巨大タンカが掲げられる場所があった。ショトゥンのこの時期は年に一度それが開帳されるという。この年は一昨日がその日にあたっていたようで、残念ながら見られなかった。大きな岩に描かれているのはおそらくツォンカパだろう。
学堂の内部には大勢の僧侶が集い読経をあげる集会堂があり、その背後に本尊が奉られているお堂がある。ふらりと入ったそうしたお堂の傍らで、番をしている一人の僧が座り込んで食事をしていた。日本のスーパーでもらう物と同じようなビニール袋に肉野菜炒めが入っていて、それを手掴みで食べている。近づいていくと「お前も食うか?」という。そのあまりキレイだとはいえない様子にはちょっとたじろいだが、私にもアジアの血が流れている。多少手垢が混じったそれを食べることには抵抗はない。「頂きます」と言って二口ほど頂いた。僧はニコニコしている。拒絶されなかったのが嬉しかったのかもしれない。ついでに飲んでいたヨーグルトも少し飲ませてもらった。
密教学堂であるンガクパ学堂の中では、女性が入れないお堂がある。10段くらいの梯子を登ったところにあるのだが、私がそこへ入ろうとすると、チベット人巡礼者の老婆が私に灯明用のバターの入った袋を差し出した。自分に代わってそこのバターランプに注いで欲しいと言う。別にチベット語で会話をしたわけではないのだが、こういう場合、同じ仏教徒である。言葉はなくてもコミュニケーションは図れるものだ。「わかった」と頷くとその袋を受け取り、お堂に入って恐る恐る灯明にバターを注ぎ足した。この老婆も先ほどの僧と同じようにニコニコ嬉しそうだった。手を合わせて私に「ありがとう」を言っている。なんだかこちらも良いことをしたような気分になって嬉しくなって、その後は老婆と一緒に堂内を一回りした。しかし、隣のガイドはさっきから無表情だ。おそらく会社から外国人旅行者を地元のチベット人と直接接触させないように言いつけられているのだろう。
デプン僧院の見学を一通り終わり、さて、ラサに帰ろうかという段階になってちょっとした問題が起こった。タクシーがつかまらないのである。日本の観光地のように待機しているタクシーなどないのだ。いまなら携帯電話で呼び出して待たせておくのだろうが、当時はそんなものない。門前にラサ行きのミニ路線バスがちょうど停車していて、もうすぐ発車するところだったので私がそれで帰ろうと言うと、ガイドはいやいやながら受け入れざるを得なかった。バスの中はチベット人だらけである。ギャミ(中国人)はガイド一人。言葉にはしなかったものの、ギャミ(中国人)はチベット人を見下している。むっつりしたその表情をみれば明らかだ。「タクシー代とあわせて300元」といった手前もバツが悪かったのだろう。バスの中では最後まで機嫌が悪かった。ノルブリンカのそばでバスを降りる際、ガイドは私と二人分の運賃4元をチベット人乗務員に投げつけた。

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