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28.20世紀美術論

大学3年生の時、念願の伊藤俊治先生の授業をやっと取ることができた。伊藤俊治先生は、東京大学文学部美術史学科卒,同大学大学院人文科学研究科美術史専攻修士課程修了後、専門の美術史・写真史の枠を越え,アートとサイエンス,テクノロジーが交差する視点から多角的な評論活動を行なう。私の学生時代は多摩美術大学の教授だったが、私の卒業後、NTTインターコミュニケーション・センター(ICC)で「移動する聖地−テレプレゼンス・ワールド」展(ICC,1998)など展覧会の企画・キュレーションも実践し、現在は東京藝術大学美術学部先端芸術表現科教授に就任されている。
学生時代、「生体廃墟論」や「マジカル・ヘアー 髪のエロスとコスモス」、「機械美術論 もうひとつの20世紀美術史」、「20世紀写真史」、植島啓司さんとの共著「ディスコミュニケーション」やレスリー・フィードラーの「フリークス 秘められた自己の神話とイメージ」の翻訳などを読んで非常に刺激を受けた美術評論家で、私のアートに関する見方や嗜好を形成するうえで大きな影響を与えた先生である。
20世紀美術論の授業でどんな講義を受けたのか、細かいところは忘れてしまったが、授業の時にふと漏らした「人間の意思というものは米粒一粒の物質でいとも簡単に豹変してしまう」という言葉が忘れられず、その物質とはLSDのことで、先生が文章でよく言及されていたティモシー・リアリーやジョン・C・リリーのことを言われていて、当時、そうした人々にはまっていた私は一気に伊藤俊治ワールドに引き込まれていった。
「生体廃墟論」は、1985年に20年代のアンダーグラウンド・ポルノグラフィからローリー・アンダーソンのエレクトリック・ボディまでの肉体感情史を綴った「裸体の森へ」をまとめた時の80年代の身体状況がもろくも崩れ、有効性を失ったという認識で書かれた本である。「生体廃墟論」が1986年なので、わずか1年で身体環境はドラスチックに変容しているのである。そのキーワードが廃墟である。「生体廃墟論」を書くきっかけになったのは、アメリカの「ペントハウス」誌に載ったNASAのアポロ計画の推進者で、宇宙調査研究所所長のロバート・ジャストロウのインタビューで、その中でジャストロウは、人間が炭素(カーボン)生命体から珪素(シリコン)生命体へ移行することはまぬがれないと発言したそうである。この言葉には私は非常に大きな影響を受けた。シリコンとはそれが象徴するコンピュータを指すだろう。当時、私はテクノに狂っていた。それは、いわゆるテクノミュージックだけではなく、これからの芸術文化を超えて、人間存在そのものがテクノロジーと深く結びつき、マン・マシーン・システムとして生きていかなければならないことを確信させるものだった。例えば、私が遅れて飛びついたサイバー・パンクの世界である。昨今のネット社会を見てみると、ロバート・ジャストロウという、カリフォルニア大学やイェール大学で教鞭をとり、アメリカ最初の人工衛星バンガード計画に参画したNASAの理論的支柱が既に今の状況を予言しているのである。それは、単なる人間の進化やテクノロジーの進歩といった未来へ向けたビジョンだけでなく、日常生活に潜んでいる新たな身体と環境の問題が横たわっている。そしてそれは20世紀初頭から徐々に用意され、浸透しているひとつのバリアなのである。「生体廃墟論」の第1章がフランク・ロイド・ライトから書かれているのが示唆的である。すでにライトの建築に単身者の空間がデザインされているのだ。それは、核廃棄物や重化学金属の捨てられたデッド・スケープや、精密産業の無菌のホワイト・スペースからニューメディア製品のディスプレイやパッキングされた食品や文具、高度に自動化されたオフィス・オートメーションに至る人間の実身体が入ることを拒絶されている空間や状況の広がりの走りだというのであある。そこにおいて、従来のカーボン生命体はもはや廃墟なのである。電脳空間を生きるシリコン生命体だけがアクセス可能だ。「生体廃墟論」の中で、もう一つ印象に残ったのは、「サバービアの飛沫」と題したエリック・フィッシェルの世界である。サバービアとは郊外、或いは外周部と言ったほうがいいかもしれない。このサバービアのランドスケープは私に染み付いている。私が小さい頃に育った街は、大阪外環状線(国道170号線)沿線の、まさにサバービアである。東京ならば国道16号線と言ったらわかりやすいだろうか。そうしたサバービアのランドスケープを構成するエレメントは、ガソリンスタンドであったり、廃墟化したボーリング場や廃車置場、ゴルフ練習場、モーテル、郊外型のだだっ広いレストランなどである。そこで生きる人間は、かつてのヒューマンではもはやない。全く違う人間、或いは生き物である。かつて、自分のアルコール依存症という病の源泉をこうしたサバービアな環境で生きた履歴にあると文章で発表したことがあるが、エリック・フィッシェルも、「母はアルコール中毒だった」と述べているように、サバービアは、アルコール中毒、ミッシング・チャイルド、ドラッグ、売春の温床かもしれない。直接そこで発生するのではなく、それらの伏線となるのである。最近読んだ中村淳彦の「名前のない女たち最終章 : セックスと自殺のあいだで」の中に出てくる企画女優、とくに、消えることのない血の怨念の山崎アジコのゾッとするような崩壊家庭があったのも、こうしたサバービアだった。
レスリー・フィードラーの「フリークス 秘められた自己の神話とイメージ」の中で、伊藤先生が「フリークス」と出会ったのはニューヨーク滞在中にイーストサイドの見世物小屋のような映画館で日本では公開されていなかったトッド・ブラウニング監督の映画「フリークス」を観たのが最初であり、追いかけていたダイアン・アーバスの未発表写真集の1ページ目に、映画「フリークス」の曲馬団の一員である小人のハンスの40年後の姿を発見する。映画「フリークス」は、旅回りの見世物小屋が舞台で、出演者は実際の見世物小屋のスター、デイジー&ヴァイオレット・ヒルトン姉妹などの本物の奇形者や障害者であった。公開当時は世間に大変なショックを与え、ブラウニングは本作以降の仕事に恵まれず、彼のキャリアを閉ざすものとなってしまった。また、イギリスでは公開から30年の間、公開禁止となっていたそうで、日本でも未公開と書かれているが、私は浪人時代、大阪の日本橋にある電気屋の若社長が作った電気屋の2階にあるフリースペースでよくマニアックな映画の上映会をやっていて、その一つのプログラムでこの映画「フリークス」を観た覚えがある。また、この「フリークス」ではないが、大学の映像研究会のサークルの主催だったと思うが、学内の大きな教室で、アレハンドロ・ホドロフスキーが自ら出演しながら脚本、監督、製作、セット及び衣装のデザイン、さらに共同で音楽制作や編集を行っているカルト映画の「ホーリー・マウンテン」の上映会があった時に、私も観に行って、感想を書かされた時に、「レスリー・フィードラーの「フリークス」を読みたくなった」と書いた。実際、この映画の中でフリークス=手足のない小人症の男が登場するのである。この映画は、ビートルズのマネージャーであるアブコ・レコードのアラン・クレインも制作に協力しており、この後、ホドロフスキーは「エル・トポ」と合わせて「アングラ映画」現象を引き起こし、ジョン・レノンやジョージ・ハリスンらから支持され、ジョン・レノンとオノ・ヨーコは制作資金を援助していた。1973年に第26回カンヌ国際映画祭を含むさまざまな国際映画祭で上映され、ニューヨークとサンフランシスコでは限定上映も行われた。ちなみに、「エル・トポ」も何度も観た。「ホーリー・マウンテン」では、ハエが排泄物に群がるかのように彼の顔を覆って砂漠に裸体で横たわっていた男が、フリークスと街へ出て、観光客に芸を見せて金を稼ぐのだが、街は独裁政権に支配され、公開処刑や残酷なパレード、兵士のレイプが行われ、観光客は見世物のようにそれらをカメラに収めていた。盗賊の見た目がイエス・キリストに似ていたので、地元の商人は彼を酔わせて気を失わせ、体の型を取って、作った受難の像を売った。あたり一面に転がる自分の像の中で目を覚ました盗賊は絶叫しながら像を壊して回り、その中で一体残ったものを担いで外に出た。売春婦の一団とすれ違ったとき、サルを連れた一人の娼婦が彼に興味を示した。売春婦たちはそのまま歩いていく盗賊の後をついて荒れた教会へと入っていく。中では兵士と住民たちによるゲイのダンスパーティが行われていた。盗賊は奥に入っていき、自分の像を祭壇に飾ろうとしたが司祭は激怒して彼らを追い出した。そこで盗賊は蝋人形の顔を食べ、風船で空に放つ。映画全般にわたってフリーク(「非常に珍しいもの、予期せぬ事態・状況」「極めて珍しい、ありそうもない事柄」)のオンパレードである。
伊藤俊治先生の著作で影響を受けたのはこの2冊だけではない。そんな伊藤先生の20世紀美術論のレポートで私は、まだ記憶に新しかった湾岸戦争時の夜間空爆と、それを迎撃するミサイルの饗宴の美しさについて書いた。それは、例えば倫理的には美しさの対極かもしれない。しかし、私の中では「美しさ」に善悪は存在しない。たぶん、そうしたものを美しいと感じる私は、「生体廃墟論」的に言えば、もはやカーボン生命体ではなく、シリコン生命体になってしまったのかもしれない。

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