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THE NAME OF LHASA

デプン僧院からホテルに戻り、ベッドで横になって本を読んでいると、一本の電話がかかってきた。ガイド兼監視役からだ。どうやら午後からのジョカン参拝をキャンセルして欲しいとのこと。「申し訳ない」といった気持ちはさらさらなく、いたって事務的に話しをしている。しかし、相手の様子はなんだか落ち着かない。明日のギャンツェ行きに関して、公安当局との間の交渉が難攻しているらしいのがわかる。ギャンツェは一応、外国人未解放地区である。チベット自治区に入る際、中国のビザと共に入域許可証を取らなければならなかったが、さらに未解放地区に行くには公安が発行する外国人旅行証を取らなければならない。だが、国境付近の政治的・軍事的に敏感な地域と違ってギャンツェはまだ外国人旅行者の間ではポピュラーな町である。チベットの歴史を振り返っても重要な町であり、有名なパンコル・チューデもある。外国人ツアー用のギャンツェ(江孜)飯店もあり、ガイドブックによればシガツェの公安では外国人旅行証は簡単に取れると書いてあるのだが、ラサの公安ではなかなか出してくれないのかも知れない。今朝、聞いた話しによるとギャンツェまでの道路状況はかなりひどいらしい。当初の予定通り、カンパ・ラを越えてヤムドク湖沿いの道を走り、ナンカルツェを経由してカロ・ラを超えてギャンツェに行くのはどうやら難しいとのこと。道路状況のひどさを外国人には見せたくないのだろうか?それとも、日本人が一人でギャンツェに行くことで何か引っかかっているのかも知れない。
キャンセルと聞いて残念に思う私ではない。むしろうっとうしいガイドはいない方がよい。いつもガイド付観光が終われば毎日のように旧市街へ足を向けてジョカン周辺、バルコルなどを歩き回っていた。案内されなくてもすでに地理には詳しくなっている。一人で行った方が気楽だし、なにかと都合がよい。チベット人と接触して「いけない物」を渡すチャンスもある。ということで一人、ジョカンを目指してホテルを出た。
いつものように、北京西路と北京東路を東へ向い、ポタラ宮を眺めながら文化公園のところで右折し、字拓路をまっすぐ行ってジョカン前の広場に出た。広場はいつものようにカムやアムドから来たと思われる行商人で賑わっている。ちなみに、この広場は公安の監視カメラによって見張られているそうだが、それがどこにあるのかわからない。1980年代後半から何度も起こったチベット人達のデモもここが主な舞台になっている。1987年の9月と10月、そして1988年の3月にはセラ、デプン、ガンデンのラサ3大僧院の僧侶が中心になってチベットの民主化と信仰の自由を求めデモ行進を行ない、多数の逮捕者を出した。そして1989年3月にはさらに激化し、チベットに戒厳令がしかれる。
お土産の一つか二つでも買おうかと思って露天をひやかして回った。ルンタ(タルチョー)屋で、一人のチベット人が買っていたのを覗いていて、10元で買っていったのを確認すると、私もオヤジに聞いてみた。
「このルンタ(タルチョー)いくら?」
オヤジはこちらが外国人観光客であると判断し、最初は15元とふっかけてきた。
「さっきのチベット人は10元で買っていったぞ!!!」
と強い調子で相手の持っている電卓に何度も「10」という数字を表示させる。
オヤジは「見られていたんじゃしょうがない」といった感じでしぶしぶ10元で手を打った。以後、その調子で上質のカタの詰め合わせを30元ほどで手に入れた。後日、ガイドにそのことを話すと、「それは安すぎます」と驚かれたが・・・
ジョカンに入る前に昼食を取っておこうと思って広場に面した一軒の安食堂に入る。ここに入るのは3回目だ。初めて来た時は何を注文してよいかわからなかったので適当に安っぽい紙に書かれたメニューの中から漢字で書かれた「羊肉と大根の煮物」を頼んだのだが、2回目以降はトゥクパと決めていた。「羊肉と大根の煮物」はたぶん外国人観光客向けの料理だったらしく、値段も17元ほどしたように思う。日本人の感覚からすると安い方なのかもしれないが、地元のチベット人たちは滅多に食べない高級料理だったのか、注文すると店のアチャ・ラ(姉ちゃん)も愛想がよかったのだが、トゥクパはわずか3元ほどだ。すると次第にアチャ・ラの愛想がなくなってきた。3回目のときはメニューすら出さず、「メニューをくれ!」とゼスチャーしてみても、私の顔を見るなり「ふんっ」って感じで頼んでもないのにトゥクパが出てきた。後からドヤドヤと入って来た欧米人観光客にはうってかわって愛想よく対応していたのだが・・・
さて、いよいよ聖地ラサの真中の真中、ラサに巡礼にやってくるすべてのチベット人が目指す「大正殿」、ラサ・トゥルナン・ツクラカンの中心部を指すジョカンに入ろうと思い、いつもチベット人が五体投地をしている(と言ってもあまりお目にかかれなかったが・・・)正門前に行くと門が閉まっていた。大きなマニ車だけが空しく回っている。屋上を見ると欧米人観光客がうろうろしているので閉まっているとは考えられないのだが、どこから入ったらいいのかわからない。仕方がなくバルコルを回ってみるが、それらしき入り口が見当たらない。ちょうどバルコルを一回りしかかった頃、ジョカンの南に位置するところに人々が出入りしているところがあった。チベット人達に続いて入っていくと、ジョカン前の大中庭が見えた。その手前に数人の僧侶が受付のようなものを出していて、張り紙を見ると25元と書いてある。ジョカンの拝観料は基本的に無料のはずなのだが、外国人は時々20元ほど取られるという。チベット人の振りをして無視して入っていく手もあるのだが、途中で咎められたりしたら気分も悪くなるし、相手が英語がわかるかどうかもわからない。ネゴシエーションできるほどこちらの英語力もない。どうしようかとしばらく迷ったあげく、「25元くらいならまあいいか」と思ってチケットを購入し、中に入っていった。ここはラサの街の語源になったラサ最大の聖地である。まさに「THE NAME OF LHASA」である。

古代チベット王国のソンツェン・ガンポ王のネパール人の妻、ティツンが建立しただけあって、正門はネパールのある西を向いている。入り口に近づくと、チベット人の老僧が扉を開けた。私が数珠を持った手でチケットを差し出すと、彼はチケットには目もくれず、微笑を浮かべて「入れ!入れ!」という。入った堂内は薄暗かった。バターランプの独特の匂いがする。床もなんだかベトベトしているようだった。
内部は入り口から時計回りに右手には歓喜堂、無量光堂、薬師堂、観音堂、弥勒堂、ツォンカパ堂、無量光堂が並び正面には文成公主が唐から持ち寄ったジョカンの本尊、12歳の釈迦牟尼像が祀られているジョウォ・シャキャムニ・ラカン(ツァンカン)=釈迦堂があり、左手には弥勒法輪堂、獅子吼堂、菩薩主眷属堂、弥勒四処堂、南門有鏡堂、冨貴堂、無量寿九尊堂、意願堂と続く。各堂を見て回り、釈迦堂の釈迦牟尼像の前で手を合わせて拝んでいると、欧米人団体客がガイドを連れてやって来た。中国人ガイドは私の姿には目もくれず、拝んでいる私の目の前で大声で解説をはじめたが、欧米人の方は、私に気づくと小さな声で「アイム・ソーリー」と呟いて私の前を開けた。堂内を一巡し、正面入り口に戻って改めて堂内を見渡してみると、外国人観光客の姿はあったが、チベット人巡礼者の姿は意外なことに少なかった。正面には沢山の灯明で釈迦牟尼像が光り輝いている。
外に出ると、ジョカンを取り囲むようにマニ車が並んでいた。チベット人の後に続いてマニ車を回しながら2周して見た。その後、2階3階のぱっとしないお堂をいくつか見て回ってから屋上に出た。鉢植えの花が並べられ、ちょっとした憩いの場になっている。
屋上からは大中庭が見渡せた。僧侶が10人ばかり出て、読経をあげている最中だった。中の2人はチベットのロング・ホルン=トゥンチェンを持っている。チベット人やカメラを抱えた東洋人(たぶん中国人だろう)がものめずらしそうに眺めていて、その傍らの柱には、薄汚い格好をしたチベット人の浮浪者らしき若者がずっとそこに座って、その様子を伺っている。残念ながら読経は聞こえてこなかったが、ずらっと並んだ無数の灯明とえび茶色の僧服を纏った僧侶の読経をする姿を見ると、ここがチベット仏教の中心であることが心のそこから実感として込み上げてきた。
周囲を眺めると、遠くにはラサを取り囲む山々が夕陽を浴びて光り輝き、手前にはポタラ宮がその威容を誇っていた。広場はまだ賑わいを残している。

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