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ラサのトイレと出会ったカンパ

ノルブリンカに近い私が滞在していたホテルから、ラサの旧市街に行くためには、とりあえず北京西路を東に進み、ポタラ宮前(ここでは北京中路と名を変える)に出て、そのまま北京東路を進めば凩森格路で、そこから先が旧市街になる。しかし、この日はちょっと街中をうろうろしてやろうと思い、文化公園のところで右折し、ラサに初めてやって来た時に通った字拓路で曲がらずに、通りをまっすぐ行ってみた。右手には西蔵自治区人民政府があるのだが、あまりジロジロ眺めずに素通りする。辺りには四川料理名物の火鍋屋が並んでいて、数にして14~15軒くらいだろうか、とにかく集中してかたまっていた。地元のチベット人の他に、おそらく四川省から入植してきたと思われるギャミ(中国人)の数も多い。いつものようにラサ・ビール片手にのんびり歩いていると、人民解放軍の制服を着た高級将校が、たぶんラサに初めて駐屯しに来たのだろうか、観光気分で土産物屋を覗いていた。その姿を見ると「ああ、やっぱりここは占領地なんだ」としみじみ思う。
通りはやがて行き止まり、金珠東路に出た。ここは、当時、道路工事中だったのか舗装のブロックが引き剥がされていて、凸凹だった。道のあちこちでも穴があいている。そのガタガタ道をしばらく進むと人民解放軍ラサ警備区の施設が厳しい佇まいを見せていた。80年代、ラサで相次いだチベット人たちのデモを鎮圧し、多数の僧侶を警棒で殴りつけ、手足を縛ってトラックに放り込んだのもおそらくここの軍人だろう。ガイドブックを見ると、もう少し先に行けば、ラサのイスラム教徒達のためのミナレット・モスク=チベット清真大寺(ギェル・ラカン)があるというので、そこに行ってみようと思い、狭い路地に入っていった。路地は狭いだけでなく、下水道が完備されていないので汚物の臭いも漂っていた。まあ、アジアの裏道なんて、みんなこんなものだろうか?気にしない。
路地を進むと、途中、アニ・ツァグン尼僧院があった。ここはチャクポ・リの丘に建つドゥプトプ・ラカンと共にラサ二大尼僧院の一つで、歴史は7世紀に遡り、15世紀に本格的な尼僧院になった。しかし、近年、ここの尼僧たちがデモなどでしばしば先頭に立って行動を起こすため、公安当局の手入れも頻繁に行なわれているとのことである。拝観料は6元らしいが、門から中を覗いてみると、数人の尼僧達の生活の場になっているようで、とても観光できるような雰囲気ではなかったので、入るのは止めにした。ラサの尼僧院というと、他にミチュンリ尼僧院がある。1992年のデモで逮捕され、未成年だったにもかかわらず3年間の懲役刑を受け、釈放後、インドのダラムサラに亡命し、後年、インドへ行った際に出会ったンガワン・ワンドゥンがそこの出身なのだが、場所はわからない。
もうすぐモスクにつくという頃、何故だか急に尿意を催してきた。おそらく、のんきに何本も飲んでいたラサ・ビールが原因らしい。近くにはトイレはない。人通りも多く、とても路上で済ますわけにもいかなかった。そばの民家に立ち寄って「厠をお借りしたい!」と言う度胸もない。酔った頭でいろいろ悩んだのだが、思いつくのはジョカン前広場にあった公衆トイレだけだ。こうなってくると観光は後回しである。事態は急速に深刻化していった。ジョカンならここからも近いと判断し、急いでそこへ向う。
ジョカン前広場に着く手前、もう限界ギリギリというところで、偶然一軒の公衆トイレが見つかった。天は我に味方したのである。入り口でオバチャンがテーブルを出して管理しているようで、一声、オバチャンに声をかけてから入った方が良さそうだったのだが、そんな余裕はすでになかった。急いで中に入る。造りはコンクリート剥き出しのシンプルなもので薄暗い。壁際に溝が掘ってあったのでそこで用をたしてホッと一息つく。落ち着いてきたところで内部の様子を見てみると、まず、便器というものが無かった。あるのは2本の溝だけである。一本は壁際。もう一本は中ほどにひいてある。壁際の一本は「小用」だとわかるのだが、後の一本は「大用」なのか?中国で初めて入った公衆トイレは成都の空港のそれなのだが、さすがに空港だけあって便器もちゃんとあり、「大」の方もちゃんと仕切られていて、薄っぺらなスカスカの扉もあった。が、しかし、ここにはそんなものはなにも無い。しばらくして、背後に人の気配がしたので振りかえって見ると、もう一つの溝にしゃがんで「大」をしている最中の兄ちゃんがこっちを睨み付けていた。カルチャーショックとはこのことを言うのだろうか?なにせこちらは海外が初めてなんである。いささかショックを受けた。兄ちゃんと目が会うと、他人の家のトイレに勝手に入り込んで用をたしたような気分になって、なんだかバツの悪い思いがして、急いで表に走って逃げた。後日聞いた中国通の話しによれば、中国ではこの公衆トイレが中国旅行の通過儀礼になっているらしい。まあ、それは中国に限らずアジア一帯の話かもしれないが・・・
用を済ませてホッとしたところで、ジョカン前広場に出た。何度もぐるぐる回ったバルコルをゆっくりと歩いてみる。この日はけっこうな人出だった。土産物売りの露店を覗いてみると、綺麗な珊瑚やトルコ石の首飾りなどがならべられているが、ほとんどは偽物だ。稀に本物に出くわすこともあるが、さすがに本物だけあって値段ははる。携帯用のマニ車を回してみて店のオバチャンに微笑かけると、オバチャンは私の回し方を注意した。本当は時計回りに回すのだが、右手に持って回したのでどうしても反時計回りに回してしまう。値段を聞くと30元らしい。安いのか高いのかいまいちよくわからない。
半日ほど歩き回ったせいか、少々疲れてビールの一杯でも飲もうと思って、とある一軒の食堂に入った。広い店内には半分ほど人が入っている。カウンターに行っていつものようにラサ・ビールを注文し、ビール瓶とコップを受け取ると、隅っこのテーブルに座ってテレビを見ながらチビチビやっていた。そうやって飲んでいると、しばらくは気が付かなかったが、チベット人の熱い視線を感じた。ここにくる前、公衆トイレで感じた視線とは全く別物だ。今回はいささか危険な感じがして胸騒ぎがする。ふと、窓際の席に目をやると、4人のチベット人の男がこちらを見ながらニヤニヤしていた。頭には赤いダシェ―を着けている。カンパだ。カンパの男と言えばインドへ亡命したダライ・ラマを中国軍から守り、60年代を通じて中国に最後まで抵抗したカンパ・ゲリラを思い出すが、彼らにはまた別の顔がある。盗賊だ。戦時中、チベット入りしていた西川一三と木村肥佐生は東チベットを旅したおり、散々カンパの盗賊にひどい目にあっている。新中国になってからは変わったのかもしれないが、その気性の荒さは今も変わらない。一方こちらは気弱な日本人観光客である。彼らの目からすると、財布が歩いているようなものだ。ひょっとするとカツアゲの一つでもされるかもしれない。変なものを法外な値段で強制的に売りつけられる可能性もある。油断は出来ない。一時は「オレの財布を狙っているんだろうか?」と危機感を抱いたが、よくよく観察してみると、どうやら違うらしい。では、彼らは何故、私を見てニヤケているのか?思い当たるのはアレしかない。間違いなくそうだ!!!
その時、私が持っていたバッグには、新宿のダライ・ラマ事務所が発行している小冊子「チベット通信」2冊と、別の小冊子の表紙をカラーコピーしたのもが入っていた。どちらもダライ・ラマ14世の写真が載っている。チベット本土では御禁制の品だ。チベット人は外国人観光客を見ると、今や入手困難になったダライ・ラマの写真を欲しがる。「チベット通信」の写真程度ならそれをチベット人に渡したところで公安に見つかっても罰金か、最悪、強制送還で済むのだが、もう一方にはダライ・ラマの写真の裏にチベット国旗「雪獅子旗」がくっきりと描かれてある。これはチベット人に渡すどころか、所持しているのを見つかっただけで大変な目にあうヤバイ代物である。しかるべき収容所送りになって日本にはしばらく帰れないだろう。チベット人が持っていたら間違い無くダプチに送られる。しかし、4人組の中の一人の男の目は微笑みながらも鋭さがあった。店内でお喋りをしている他のチベット人には無い意志の固さが感じられる。チベットには今も中国からの独立を目指す地下組織が存在する。彼はもしかしたらそのメンバーかもしれない。目と目が合うとお互い気持ちが通じ合ったのか、相手もこちらも小さく頷いた。幸い、ここにはギャミ(中国人)の姿は無い。他の客達も知らん顔をしている。私は小さな確信を得ると、少し残ったビールをそのままに店を出ることにした。そしてその寸前、その男に最もヤバイ代物を手渡した。男はそれを手にすると目もくれず懐に大事にしまい込んで目で合図した。

店を出た私の気持ちは高揚していた。「チベット」を思う気持ちがチベット人と私との間で通じ合ったのである。一瞬の出来事ではあったが、なにか大きな仕事をやり遂げた時のような充実感に満ちて、私はホテルへと向って帰って行った。

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