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ガンディーの誕生日

2001年10月2日。数日来考えて作った亡命政府の公務員宿舎のプランだが、いま一つ満足の行くものではなかったものの、一度、担当の役人(ツェリン・ドルジェ・ラ・・・敬称の「ラ」をつけてもう一人と区別する)に見せておこうということになり、9-10-3の日本食レストランで中原さんと待ちあわせして、バイクでTemple Roadを下って行き、役所が立ち並んでいるカンチェン・キションに向かった。
A3の紙に平面図と立面図を9-10-3のインターネットカフェ(当時はまだ準備中)でプリントアウトさせてもらったものもあったのだが、ついでに格好よくプレゼンテーションしようと思い、自分のパソコンのモニターを使って説明するつもりでノート型パソコンを袋(バックといえる代物ではない)に詰め込んで脇に抱え、後部シートにまたがり、中原さんにつかまってダラムサラの坂道を駆け下りていった。今回の打ち合わせはボランティアではなく、はじめての金になる仕事の打ち合わせだ。報酬をもらうとなるとそれなりの成果を持っていかなくてはならない。少々緊張したが、出たとこ勝負の心境で打ち合わせに臨むつもりだった。報酬の5000ルピーは大きい。
ところが、カンチェン・キションについてみるとなんだか様子がいつもと違っている。普段なら役所の人間や、図書館を利用する人たちがカンチェン・キションを徘徊しているはずなのだが、この日に限っては一人の姿も見えなかった。中原さんのバイクの音だけが広場にこだましている。Department Of Homeの入り口も鍵がかけられていて、人がいる気配は無かった。無理やり忍び込むのは簡単だが、肝心の打ち合わせ相手がいなければ話は始まらない。不信に思った中原さんがおもむろに、
「今日は何日だったっけ?」
と聞いたので、素直に
「10月2日です」
と答えると、
「あ~~~~~~今日はガンディーの誕生日で役所はみんな休みだよ」
と言うではないか。残念ながらこの日の打ち合わせはキャンセルである。せっかく持ってきた図面やパソコンはどうなるんだ?お預けか?と拍子抜けしてしまった。中原さん同様、私も「あ~~~~~~」と言うしかなかったが、しかし逆に、自分でも納得のいかないプランだったので、もう少しプランを練り直す時間稼ぎが出来るな・・・とも思えた。おかしな図面を見せたら今後、仕事が来なくなる可能性もある。ボランティアでインドに来たのであるが、貰えるなら報酬は貰っておきたい。しかし、ガンディーの誕生日でチベット亡命政府の役所が休みになるとは思っても見なかった。
インドでガンディーと言うと何人ものガンディー、たとえば国際空港の名前になっているジャワハルラル・ネルーの娘インディラ・ガンディーやその息子で映画『マッリの種』のモデルとなったラジーブ・ガンディー(二人とも暗殺される)、2004年のインド総選挙で第1党の地位を獲得したコングレス党(国民会議派)を率いるイタリア生まれのソニア・ガンディーなどがいるが、インド中でお祭りになるのはもちろん「マハトマ(偉大な魂)」「仏陀以来の最大のインド人」「インド独立の父」と呼ばれたマハトマ・ガンディーの事である。12年に一度のクンブメーラや満月の日に行われるホーリーほどではないが、マハトマ・ガンディーの誕生日を祝う為にその日に限ってはチベット人の町マクロードでもインド人がお祭り騒ぎをやっていた。マハトマ・ガンディー・ジャヤンティ。私もその祭り行列にぶち当たることになる。
マハトマ・ガンディーはイギリスに対して完全なる自治を求めて非暴力の抵抗を通して戦い、イギリス統治からインドの人々を解放した。人々は彼の偉業を称えマハトマと呼ぶ。偉大なる魂を意味する敬称である。自らブラフマチャリヤ(禁欲、性欲の自制)を行い、アヒンサー(不殺生、博愛) を生涯の生き方を貫いた。その思想はダライラマ14世にも受け継がれ、チベット人もマハトマ・ガンディーを尊敬しているようである。
「暴力は対抗的な暴力によって一掃されない。それ(暴力)は、一層大きな暴力を引き起こしてきただけである。けれども私は、非暴力ははるかに暴力にまさることを、敵を赦すことは敵を罰するより雄々しいことを信じている。」
「非暴力は決して弱者の武器として思いついたものではなく、この上もなく雄々しい心を持つ人の武器として思いついたものなのです。」
これらの言葉はダライラマ14世のメッセージに受け継がれているようだ。9・11のアメリカ同時多発テロの際のダライラマの声明と比較していただきたい。
目的を果たせず中原さんと私は次回の予定を決めないで九十九折の道をバイクで駆け上がり、マクロードのステートバンクのところまでやってきた。中原さんは他にも現場を監理する仕事があってそこで分かれたが、私は今日一日の予定が無くなったのでしばし途方にくれていた。町でも徘徊するかと、マクロードのメインストリートであるTemple Roadを見てみると、インド人が大勢集まってお祭り騒ぎをしていた。その後方には吹奏楽団もいてにぎやかに行進曲のような音楽を奏でている。面白そうだったのでその一団の後を付いていった。祭りのボルテージはどんどん上がっていく。
普段でも車のすれ違いが大変なTemple Roadはいつにも増して人で埋め尽くされており、車の通行はほとんど不可能だった。タクシーの運ちゃんも呆れ顔で様子を伺っていた。文句の一つでも言ったらおそらく車ごとひっくり返されそうな様子だった。興奮したインド人を見るのは初めてだったので驚きもしたが興味深かった。
群集の中に潜り込んでもっとよく見ようとすると、3,4人のリッチなインド人が片一方の手で10ルピー札の束を握り締め、もう一方の手でそれらをばら撒いていた。それをみすぼらしい格好の物乞いの女たちが競い合って拾っている。バクシーシだ。「バクシーシ」は日本語に訳せば「喜捨」という。辞書によれば、「自分の財物をすすんで寺社・貧者などに与えることである」と書かれている。インドでは日常の光景である。
マクロードのTemple Roadやツクラカン&ナムギャル僧院の前などには普段から物乞いの老婆や母子連れが道行く人にバクシーシをせがんでいるのだが、その様子はどことなく悲惨さが漂っていた。しかし、ここで必死になって10ルピー札をかき集めている物乞いの女は、悲惨どころか生きるエネルギーの塊に見えて仕方がなかった。その光景は1998年にチベットのラサのノルブリンカの門前で10元の喜捨に群がったチベット人僧侶をはるかに上回る熱気だった。キャーキャー言いながら彼女たちは10ルピー札を拾い集めていた。それで何日分の儲けになるのかは定かではない。
しばらくその光景を眺めていると、ドンチャン騒ぎのインド人の一団は一つの造りかけの建物に入っていった。面白そうなので私も後に続く。コンクリート打ち放しの廊下を抜け、同じような階段を登ると、集会所のようなところに出た。パイプ椅子が並べられていて、前方では着飾った男の子と女の子がなにやら儀式のようなことをやっている。椅子の一つに座ってしばらくその光景を眺めていると、コーラのようなジュースが回ってきた。ラベルを見ると「ThumbsUp」とある。日本語に訳すと「うまいぞ!!」と言うことになるが、一口飲んでみるとなんだかマサラの味がした。さすがインドのコーラにはマサラが入っているのか?と珍しく感じたが、後日、本物のコカコーラを飲んだときには普通の味だったので、この「ThumbsUp」独特の味なのだろう。
集会場の周囲には食べ放題の屋台(?)も並んでいて、私が紙の皿を持っていくと気前よく料理と言うかスナックのようなものを大量に入れてくれた。普段はいつもチベット料理ばっかりだったので物珍しく何度も屋台に行っては料理を入れてもらった。しかし、味はと言うといまいちだった。やはり私はチベット料理が向いているようだ。

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