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20.そしてチベット青年会議へ

ゲリラ部隊の瓦解とSFFの無力化が相乗効果となって、チベット難民青年たちは、チベットの解放は自分たちの肩にかかっているとの確信を強めた。
1970年10月7日、300人のチベット人青年たちが小旗の並んだテーブルにつき、続く1週間の間に、チベットにおいても亡命社会においてもかつてなかったような大討議が延々と行われた。そしてこの会議の途中で、公式に「チベット青年会議」が発足した。こうして、亡命社会に愛国野党と言うべきものが出現したのである。青年会議発足の2年後には「チベットの正当なる独立を回復するための闘争」と名付けられた、民間のものとしては2番目の組織がダラムサラで発足した。
1977年3月10日、ラサ決起の18周年記念日に、いくつかの集会とは別にニューデリーの中国大使館前で、チベット青年会議が組織したデモが行われるはずであった。これ以前にも、何度か中国大使館前でデモが行われ、中には暴力沙汰に発展したものもあったが、今回のチベット青年会議が組織したデモ隊は敷地内に突入して、建物を打ち壊す計画を練っていた。しかしこの計画はインド情報局(IB)の知るところとなり、10日の朝早く、ヤムナー河の土手を背にしたオールドデリーのチベット難民キャンプ、マジュヌカ・ティラの近くに何百人のデモ参加者が集まり始めると、警察はこの地区を封鎖した。これを突破できた数百人も、それに続く中国大使館前の攻防戦において全員が逮捕された。逮捕されたものは結局、起訴されることなく間もなく釈放された。1,000人を越える難民が集まって抗議行動をしたのが功を奏したのである。デモの参加者たちは、こうした集まりに新たな目的を付与するために、国連のチベットに関する3つの決議案が実行されることを求めて、デリー南部の国連情報センターの真向かいで、ハンガーストライキを行うことにしたのである。
新たに結成された「チベット人民自由運動」のために調整委員会が発足し、ストライキは、1977年3月20日の朝10時に開始された。それから何日もたたないうちに、チベット人たちはテレビや新聞から、18年前にダライ・ラマ法王がインドに到着した時以来かつてなかった取材攻勢を受けた。時期的にも、これ以上の好機はなかった。当時のインドは、インディラ・ガンディー首相の20カ月にもわたる非常事態宣言が解除された後の選挙の真っ最中だった。1週間後に、劇的ともいえる民衆の自由主義感情の波に乗ってジャナタ党が権力の座に就いたのである。何十年にもわたって野党に甘んじていたジャナタ党の指導者たちは、チベット問題を最も声高に擁護していた政治家たちでもあった。ハンガーストライキへの幅広い支援に吹聴されたチベット人たちは、今日に至るまで最も統一のとれた政治的努力を奮い起こしつつあった。
当時、チベット青年会議の議長だったロディ・ギャリはこれがどういう可能性を秘めた時期であるのか、はっきりと認識しており、ジャナタ党の指導者たちと直接談判する決心をしていた。ジャナタ党員たちが過去、チベット問題に対して言質を与えたという事実と、ハンガーストライキと言う2重の圧力があれば、チベット独立を支持するという正式な公約を引き出せるのではないかと踏んだのである。
ロディ・ギャリと彼の知り合いの3人がジャナタ党の本部に着くと、ジャーナリストたちをかき分けて前に出て、ジャナタ党で最も敬せられている長老政治家にしてキングメーカーであったJ・P・ナラヤンの秘書の注意を引くことに成功した。秘書は面会の許可を与えることを言下に拒絶したが、彼らがチベット人であることを知った秘書は彼らを招きいれることになった。
ロディ・ギャリはナラヤンにカター(儀礼用のスカーフ)を捧げ、ジャナタ党の勝利を祝し、ハンガーストライキへの支持を訴えた。ナラヤンは即座に同意した。その上、首相になるはずのモラルジ・デサイの支持も保証すると約束したのである。続く何日か、新内閣に任命される予定の政治家たちや書簡が次々とストライキのテントに到着し始めた。その誰もが、チベット問題を支持するという言質を与えていった。難民の闘いがその受け入れ国から公に許されたのは、これが初めてであった。そのユニークな意思表示と引き換えに、ジャナタ党はハンガーストライキの中止を確保した。
しかし、このストライキは紛糾をもたらした。新政府との接触を青年たちに先取りされた亡命政府内閣は、この一件をことごとく非難した。いったん権力を握ったら、新政府がチベット問題に対していかなる態度に出るか分かりもしないのに、ハンガーストライキ参加者たちが無謀にも、チベット難民の努力を水泡に帰するようなことをしたと責めたのである。ダメージをとりつくろうために、亡命政府内閣はチベット人民自由運動の指導者の辞任を要求した。人民自由運動の主なるメンバーは青年会議の指導者でもあった。続く数日間、ダラムサラは政府に不満の声を上げる群衆にあふれかえっていた。内閣の閣僚たちも議員たちも、人前で問い詰められた。勝利にわざわざ背を向けなければならなかったわけを理解できるチベット難民たちはほとんどいなかった。最終的には、危機を回避するためにチベット人民自由運動の調整委員会は解散し、青年会議の創立した4人のメンバーも抗議の意味で中央執行部から辞任した。そして実際、ジャナタ党は政権を発足させてから間もなく、前言をすべて翻し、前政府と同じように中国との平和的共存を望んで、チベット問題を切って捨てたのである。
亡命社会における政治的自由の限界が、この対立によってまざまざと示された。しかし、民主主義の力が健在であった証拠に、数年後には若き指導者の全員が政治の場に戻ってきただけでなく、内閣の大臣、情報・広報局の長官、ドラマ・スクールの所長といった、以前の彼らにとっては攻撃の対象であった地位について働くようになっていった。例えばロディ・ギャリの場合は、チベット人民代表委員会の議長となった。その間に、チベット青年会議は新たな指導体制をとるようになっており、その頂点に立っていたのがテンパ・ツェリンだった。ダラムサラに到着してまもなく、テンパ・ツェリンは、中央執行部名簿の中に自分の名前が他の候補者30名と共に挙げられていることに気付いた。結局テンパ・ツェリンは、バイラクッペ支部での書記長としての活躍を買われて、青年会議の中でも最も高い職務の1つであり、亡命社会に著しい影響力を有している中央執行部アドバイザーに選ばれたのである。
テンパ・ツェリンのもとで青年会議は新たな軍事闘争作戦を開始した。指導者たちはごく内密に、チベット解放闘争にテロリズムを採用するべき時期が来ていると判断したのである。もう何年も前から討議され続けてきたこのアイデアが時ここに至って表面化してきたのも、単にインドの新政府からの公の支援をとりつけようという試みが失敗したからだけではなかった。1959年からすでに、秘密裏に延々と武力解放闘争の帰結というものがあったのである。
テンパ・ツェリンは、チベット青年会議の計画がテロリズムに転じたことに触れて、こう述べる。「チベットの独立は、戦いによって勝ち取られるべきものなのです。戦いが成功するかどうかは別の問題です。しかし少なくとも、戦いに備えておく必要はありました。準備ができていなければ、たとえ何らかの機会が生じても、それをうまく捕まえることなど出来ない相談ですからね」。
1977年の後半、チベット青年会議は自由闘争部門の発展計画を立てた。チベット青年会議はチベット難民学校の卒業者全員に、特殊国境部隊(SFF)の任務につくように呼び掛ける一方で、チベット青年会議の兵士からなる先鋭部隊が、中国大使館や海外の中国要人に直接テロを仕掛けるべきであるとの決定を下した。登山学校の名目でこうした訓練を行うという話し合いが行われ、それについての調査がなされた。
チベット青年会議は、1978年初頭に、難民の居留地で制作された木製の銃を使用してのゲリラ戦の訓練を開始した。男女を問わずチベット青年たちに「チベットのために闘いを」という文句を刷り込んだTシャツを着せて、原野に連れだしたのである。入念な面接に合格したグループには、期間を延長して、チベット難民の大型居留地の周囲の密林の中で、より高度な訓練を施した。また、チベット青年会議は、すでに存在したチベットの地下組織との絆をさらに拡張し、公にはモスクワからの紐付きではない援助の可能性を歓迎した。モスクワは60年代の半ばから、援助の申し出に積極的な態度を見せていた。とはいえ、大半のチベット人にとって、実際に戦争状態にあるならばともかく、それ以外の場での暴力の行使は極めて微妙な問題であり、これが結局、チベット青年会議のもくろみの歯止めになってしまうのである。
1970年代の後半までに、ダライ・ラマ法王がチベット独立のために企ててきた計画の多くが、すでに何らかの成功を生みだしており、難民社会は成功しつつあった。ダライ・ラマ法王が20数年前にまさに望んだ通り、難民社会は政治的にも、文化的にも、経済的にもまとまりのある統一体へと成熟していた。こうなっては北京側も難民社会の崩壊を期待できず、遅かれ早かれ交渉に応じざるをえなくなるだろうと、ダライ・ラマ法王は信じていた。成功が間近であることを確信した法王は、アジア諸国と西洋諸国に外遊し、再度チベット問題に世界の関心を向けるべく努めた。この訪問は宗教上の目的から行われていたとはいえ、訪問それ自体が、1950年代の初頭からチベット占領の正当性について国際世論が喚起されることに敏感になっている中国に影響を与えるのは確実なところであった。

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