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ダラムサラの山(パート1)

2001年9月9日。話は前後するが、9-10-3の部屋から外の景色を眺めると前山の向こうにヒマラヤの支脈が顔を出している。私は山が大好きである。おそらく、高校・大学と山岳部だった父の血を引き継いでいるのだろう。ひとめヒマラヤが見たくなってチベットまで行った人間である。そんな山好きな人間にとってこれほど絶好のロケーションはないだろう。毎日、憧れのヒマラヤが窓から見られるのだから・・・
この際である、登頂を目指すほど大それた野望はないが、せめてそばに近寄ってみたいという気持ちは強く持っていた。1998年に成都からラサに向かう飛行機の中からヒマラヤを拝んだときの霊気をまた感じてみたい。チベット文化圏だけでなく、インド平原に住む人々も、ヒマラヤを神々の座として崇めてきた。その気持ちはよくわかる。日本でも山が御神体であるというケースはよくあることである。チベットも仏教伝来以前のアニミズム的なボン教の影響は今日まで続いている。西チベットのカン・リンポチェ(カイラス山)をはじめとする聖山が数多く存在し、その山(湖や河も同じだが・・・)を一周する巡礼路が整備されている。ちなみに湖で有名なのはカイラスの近くにあるマパム・ユム・ツォ(マナサ・ロワール)、河は言うまでもなくガンガー=ガンジスである。
毎日、夕方、9-10-3の屋上に上がって夕日にピンク色に染まるヒマラヤのピークを眺めると、そこに存在するのはただの山ではなく、正しく神に感じられたものだ。見ていると、なんだか背筋がピンと伸びるような感じがして、思わず手を合わせて合掌してしまったことが何度もある。自然の神秘という言葉以上の霊気をヒマラヤは湛えているのではないだろうか?後日、その凛とした姿を間近で拝んだときには鳥肌が立った。
ダラムサラに来た当日、建築家の中原さんから聞いた話では、手前のピークが4800m、その向こうは5000mだそうだ。名前はない。ヒマラヤでは、そのクラスの山はほとんど無名峰である。ネパールヒマラヤの8000mを越える横綱クラスの山に比べたら子供みたいな山ではあるが、日本では富士山が3776m。考えてみれば、それよりも遥か1km以上上空に頂上があることになる。スケール感が伝わるだろうか?日本ではまず拝めない景観がそこに広がっているのである。これを間近に見ないで日本に帰ったら後悔するに違いない。ダラムサラに来た当初からいつかは山登りをしようと機会をうかがっていた。
その日の朝、目覚めたとき、窓から空を見上げると、まだ雨期は明けていないのだが晴間が見えていた。雨期が完全に明けるまでは待っていられない。今日なら雨が降らないだろうと思い込んだ私は、
「よし、今日、決行しよう」
と思い、地下の9-10-3の食堂で軽くバター茶を数杯飲んだだけで、部屋に帰って山登りの準備をし始めた。持って行くものはカメラがあればいいだろう。靴も登山靴ではないがスニーカーなので多分大丈夫だ。ミネラルウォーターも一本持っていくか?本格的な登山ではないし、ネパールヒマラヤのトレッキングのようにポーターやガイドも不要である。ただ、そうは言っても、地図を持っているわけではない。手探りの状態で山に近づかなくてはならなかった。当面の目的地はマクロードのバスターミナルから北西に伸びているMallRoadを4kmほど行ったところにあるダル湖に設定した。その先は行ってみないと分からない。出たとこ勝負である。
マクロードに来てすぐに買い求めたチベットの僧侶がよく持っているような肩掛け袋に荷物を入れ、9-10-3からJogibara Roadの坂を上っていった。途中のガンデン・チューリン尼僧院からは朝の勤行の声が響いている。通りに面した商店や露店は、早いところはもう店を開けていて商売を始めていた。ステートバンクの手前、チベット難民受入れセンターの出入り口にはおそらく最近、チベットから脱出してきたばかりなのだろう難民の、少し憂いをおびたいくつもの瞳が交差していた。
笑顔を絶やさないチベット人に囲まれて陽気になっていた私であるが、この難民受入れセンターの前に来るといつもシリアスになったものである。半世紀以上続いているチベット問題の中心施設のような所だからである。受入れセンターの職員は語っている。
「今年の一月から三月初めにかけてチベット内地からやってきたチベット人は745名で、そのうち60パーセントは当地の学校に学びに来た青少年で、30パーセントは僧尼、他は子どもたちに会いに来た親たちと巡礼者です。この他に5名の子どもが雪山を越えるとき凍死し、7,8名は手足の切断手術を受けなければなりません」。
バスターミナルからMall Roadをまっすぐ行くとダル湖である。その近くにTCV(Tibetan Children Village=チベット子供村)がある。TCVにはまた改めて行くとして、今日の目的は山である。4kmの道を早足で歩いて40分。目の前に湖というよりも池に近い泥水のダル湖が見えた。インドでダル湖といえばスリナガルのそれが有名だ。あちらはちゃんとした湖でゲストハウスを兼ねているハウスボートが浮かび、睡蓮の花も美しいところだが、ここダラムサラのダル湖はほとんど溝の池であった。湖畔(?)には小さなヒンドゥー寺院が建っている。道はそこでT字路になって分かれていて、右へ行くとすぐにTCVの入口である。左へ行くとどこに行くのだろうか?わずかに持ってきていたチベットのガイドブック(旅行人ノート1 「チベット」)の地図を見ると2km先にTalnuという集落があると書かれているだけでそこで地図は終わっていた。ここから先は感だけが頼りである。とりあえずTalnuを目指して歩いていくことにした。
長閑な農村の風景と転々と存在する人家を尻目に歩いていくと、前触れもなく、突如としてヒマラヤが全貌を現した。それはひとつひとつの山がピークを並べているという光景ではなく、同じような高さの山が屏風のように連なっている姿だった。低い雲は目線にある。空は雨期だとは信じられないくらい澄み切っていて青く輝いていた。3年前にチベット本土に行ったときも強烈に感じたのだが、空の青さは日本の比ではない。

これで満足できていたなら、この後、問題はなかったのだが、人間の欲は深いものである。もっと接近してやろうと辺りをうかがった。すると、一本のあぜ道が山中に向かって延びていた。先方を見ると、ヒマラヤの前山を回りこんでいるように見える。
「もしかして、これをたどって行けばもっと壮大なスケールの風景がみえるかもしれない」
そう思うと、いてもたってもいられなくなり、小走りでそのあぜ道を進んでいった。ところが、その道をどんどん進んでいくと道は細くなっていくばかりであり、そのうち道なき道の状態になってきた。足元には道はなく、太いパイプが2,3本走っているだけである。そのパイプの上を綱渡りのように進んでいくと、とうとう行き止まりになった。たどり着いたのは小川が流れる岩場である。頭上には遥か高みに山々が見えているが、沢登りをしないことには行けそうにもない。もちろんそんな装備をして来なかったから沢登りは出来なかったが、50Mほど先に進んでみた。だが、そこでストップである。
「仕方がない、撤退するか・・・」
空を見ると、雲行きはだんだん怪しくなってきていた。もしかしたら、まもなく降りはじめるかも知れない。9月初旬のダラムサラはまだ雨期の真最中である。いつ雨が降り始めてもおかしくはない。ここで降られたら帰りが大変だと思い。後戻りすることになった。
再び水に濡れて滑りやすくなっているパイプの上を綱渡りして、とりあえずダル湖まで引き返した。幸いまだ雨は降り始めていない。それにしてもあのパイプはなんだったのか?考えられる答えは一つである。つまり、水道だ。行き止まりになったところの付近からダル湖の先の集落(おそらくTalnuだろう)に水を運んでいるのであろう。
日本の水道の場合、水道管は地下1.2mの地中に埋められているのだが、ここダラムサラでは地面にむき出しにされた水道管がよく見かけられた。車がその上を通ったりして寸断されるのだろう、そのためかどうか解からないが頻繁に断水があった。シャワーを浴びている最中によく水が止まったりしたものである。シャワーなら数日我慢すれば済むことであるが、トイレはそういうわけには行かない。だからいつ起こるか解からない断水に備えてバケツ2杯に水を確保していた。
ダル湖からMall Roadをまた40分くらいかけてマクロードに戻り、9-10-3の部屋に戻った頃には小雨が降り始めた。ダラムサラ=マクロードに来た日からずっとこんな調子で雨ばかりであった。しかもここは標高1800mの山の上である。空模様はエキサイティングに変化する。晴れているなと思っていても、あっという間にガス(雲)が上がってきて、ポツリポツリと雨が降り始める。あの水道管をたどって行き着いた岩場で雨に出くわしたら大変なことであった。1998年にチベット本土に行ったときも、最終日、ラサ郊外を歩いているときにも雨が降ってきて、柳の下で雨宿りしたのだが、あちらは元々雨量が少ない乾燥した高地である。一方こちらはモンスーンの影響をダイレクトに受けるインドだ。雨宿りしてもなかなか雨はあがってくれない。野宿だけは勘弁してほしい。この日は幸い濡れることはなかったが、後日、ひどい目にあうことになる。

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