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ツクラカンとミュージアム

アッパー・ダラムサラ=マクロードガンジのメイン・テンプル(ツクラカン=Tsuglhakhang)はバス停の広場からTempleRoadを下った突き当たりにある。このあたりはツクラカンのほかにダライラマのパレスや元々ポタラ宮殿内にあったダライラマ直属のナムギャル僧院があり、テクチェン・チューリンと呼ばれている。
ナムギャル僧院が経営しているレストラン(2階はコンピュータセンター)の前にバイクを停め、歩いてツクラカンに入っていった。
路地のような通路を通っていくと、仏教関係の本や儀式で使う小物、高僧のブロマイドなどを売っている店があり、その奥の階段を上ると、ツクラカンのバルコニーに出た。
バルコニーの南西側からはヒマーチャル・プラデーシュ州の丘陵地帯や遠くインド平原まで見渡せるようで、なかなかのビュースポットだった。反対側には天気がよければヒマラヤが拝める。私が中原さんに続いてツクラカンに行ったときは参拝者の数はそれほど多くはなかったが、ダライラマが法要やティーチングがある際には立錐の余地なくチベット人でツクラカンやその前の広場が埋め尽くされるという。
お堂の入り口で靴を脱ぐと、静かに中に入った。中央には中規模な釈迦牟尼像が安置されており、その前の台には、チベット人が寄進したのだろう、小額紙幣と硬貨の山が築かれていた。釈迦牟尼像に向かって左手には別の仏像(名前はわからなかった)があり、柵がされていた。その仏像が安置されている壇上では一人の老僧が、チベット人参拝者からお金を受け取り、引き換えに仏像にカタをかけていた。インドの中にあってここは紛れもなくチベット世界だ。チベット本土の寺院や僧院と違っているところはバラーランプの独特の臭いがしないところだろうか?
私が呆然とラカン内部を観察している横で、中原さんはおもむろに略式の五体投地を行った。私も気付くと中原さんにならってぎこちなく五体投地した。
「あの仏像はね、チベット民族蜂起の際にインドに持ち出されたものだよ」
中原さんは、カタをかけられている仏像を指してそう言った。なるほど、貴重なのだろう。
「隣にカーラチャクラ堂があるから、せっかくだから見ていく?」
カーラチャクラとは、チベット密教の最奥義である無上ヨーガ(瑜伽)・タントラの代表的な聖典である。漢字では「時輪」と訳され、「カーラ」とは時間を意味し、「チャクラ」は存在を意味する。カーラチャクラ・タントラはインドで最後に登場した密教聖典で、『秘密集会』を中心とする「父タントラ」と『ヘーヴァジュラ』『サンヴァラ』などの「母タントラ」を止揚統合する「不二タントラ」といわれ、インド密教の発展の最終段階に位置している。カーラチャクラ・タントラ成立の背景にはインドでヒンドゥー教諸派の隆盛に押され、仏教が衰退していったことと、イスラム教徒の侵攻がある。
カーラチャクラ・タントラの大系は「外・内・別の三時輪」(トゥンコル・チナンシェンスム)に要約される。ここでいう「外」とは仏教の伝統的な宇宙論である「須弥山世界」の構造、その周囲を回転する天体の運行などを指し、「内」とは輪廻転生を繰り返す生物とその身体構造、「別」とは、ミクロ・コスモスとマクロ・コスモスの対応関係を示した心口意具足時輪曼荼羅と、カーラチャクラ・タントラ独特の生起・究竟の二次第の大系を意味している。宇宙論と生理学説を統合した思想大系を持っているタントラだ。
本来、密教経典の学習は選ばれた修行者に限って行なわれるのだが、カーラチャクラは極めて高度な内容にも関わらず、世界平和への祈りが込められているため、この教えの門は広く一般の人々に開かれている。ダライラマが世界各地で灌頂の儀式を行なっている。
カーラチャクラ曼荼羅は写真や映像(ダライラマの半生を描いた映画「クンドゥン」では砂で描かれたカーラチャクラ曼荼羅が登場した。また、チベット本土のポタラ宮殿の中には、カーラチャクラの立体曼荼羅がある)などでは見ていたが、壁面に大きく描かれているカーラチャクラ曼荼羅は初めてだった。緻密に描かれたそれは歴史的には価値はないかも知れないが、やはりすばらしい作だった。
ツクラカンを後にした中原さんと私は、ついでにチベット・ミュージアムに立ち寄った。ミュージアムといってもそれほど価値のある代物が展示されているわけではない。そういった物はKangchen Kyishongの図書館の資料室にあるらしい。
入り口で20ルピー(だったと記憶する)の入場券を買って中に入ると、英語、チベット語、ヒンディー語でチベットの歴史、特に中国によって侵略された歴史がパネルや映像などで展示されていた。これと言って目を引くものはなかったが、唯一、アマ・アデのインタビューには見入ってしまった。アマ・アデには思い出がある。
1999年12月11日、東京でチベット独立蜂起40周年を記念して、「チベット自由と人権の集い」という講演会があって、そこにアマ・アデが呼ばれていたのだ。
当時、私は新宿のダライラマ事務所に開演ぎりぎりまでいて、講演会で読み上げられるダライラマ日本代表部事務所の代表であるカルマ・ゲレク・ユトク氏の英語の原稿を翻訳の手伝いをしていた。大方の所は難なく訳せたのだが、
「それはまるで、王女のような気高いレディに指図して一生を家政婦として働かせるようなものです」
という一節は前後の文脈から考えてもよくわからなかった。事務所のスタッフは、
「なにか仏教的な深い意味があるんじゃないですか」
と言っていたが・・・
翻訳がすむと、スタッフとボランティアの3人でタクシーを飛ばして会場に駆けつけた。行ってみると開演ぎりぎりで、もう少しで日本語訳の原稿が飛ぶところだったが間に合った。ただ、この集会、いささか問題があった。当初、アマ・アデと共に同じくチベットの元政治犯で、31年間獄中にいたパルデン・ギャツォも招請されることになっていたのだが、土壇場でキャンセルになった。ビザがおりなかったらしい。当時、パルデン・ギャツォの「雪の下の炎」という自伝が出版されたところだったので、大々的に宣伝していたにもかかわらず、肩透かしを食らってしまった。どちらかと言うとアマ・アデよりもパルデン・ギャツォの方が主賓だったのである。それにもかかわらず・・・
また、この集会を主催した実行委員会なるものも怪しげな団体であった。かなり右よりだったのである。反中国で凝り固まっていた。しかも、委員に名前を連ねていた各界の著名人も後で聞くと勝手に名前を使われていたらしい。ダライラマは決して反中国ではない。この集会を主催した人脈が、のちのち「日本チベット国会議員連盟」を結成し、ダライラマ事務所もこういう人たちに牛耳られていく。元々、旧民主党の牧野聖修や五十嵐文彦が中心になって結成された超党派の議員連盟である「チベット問題を考える議員連盟」というものがあって、反中を掲げているわけではなく、鳩山由紀夫、後藤田正純など日中友好議員連盟にも加盟している議員も参加していたのだが、いつの間にか変質してしまった。日本チベット国会議員連盟事務局長の長尾たかし(自由民主党)の名前を見ただけで吐き気がした。
そんな経緯があったので、アマ・アデには一部の日本人によって政治的に利用されたと言う、同じ日本人として申し訳ない気持ちがあった。しかも彼女は9-10-3のメンバーだ。ダラムサラでもう一度お会いしたかった。
パルデン・ギャツォについてはチベット旅行記の中で紹介したので、ここではアマ・アデを紹介したい。
アマ・アデ(アデ・タポンツァン)は1932年、チベット・カム地方ニャロンのゴツァ村(現四川省カンゼ蔵族自治州新竜)で生まれ、メトク・ユル(花の土地)という自然環境豊かな土地で、いたって平和的な青春時代を送った。タポンツァンとは「馬の指揮官」を意味する。彼女の父、ドルジェ・ラプテンはニャロン地方の由緒ある豪族のひとつであるギャリツァン家の指導者ギャリ・ドルジェ・ナムギャルの家臣であり、後に大臣、ティムポン(裁判官)の職も務めた有力者だ。後に一家はカンゼ(甘孜)移り住み、1948年に彼女はサンドゥ・パチェンと結婚する。
1950年4月中旬、ダルツェンドから前進を始めた人民解放軍は呉実藏将軍の指揮の元カンゼに侵入する。当初中国人達はチベット人達を懐柔するためにダヤン(大円)と呼ばれる銀貨を贈り物として住民に与え、チベット仏教にも敬意を払う態度を見せていたが、次第にその態度は一変していく。銀貨も回収された。
1955年、僧院に対する最初の迫害が始まり、1956年には「民主改革」が始まった。僧院の所有地や家畜が押収され、僧侶たちは強制的に仏教の教義に反する農作業をさせられることになる。そして悪名高いタムジン(闘争集会)が開かれた。子供は親を、使用人は雇い主を、僧たちはラマや僧院長を告発、非難することを強いられた。罪人となったそうした人々は20~50人の人間によって虐待され、辱めを受けることになった。そして次第に中国の暴虐はエスカレートしていく。ほとんどの人が所有している銀の装飾品などの貴重品や伝統的な装飾品を提出するよう要求され、仏像の破壊を命じられた。背いた者は拷問される。その模様は筆舌に尽し難い。カムの住民は熱心なチベット仏教徒である。それがカンパ達の反中国決起につながっていった。
彼女は女性ながらも抵抗運動に従事する。彼女の仕事は、情報と連絡係で、山岳地帯に篭もった男達に中国の動きを知らせることであった。中国軍の装備に対して、チベット人達の持っている武器は貧弱であった。だが、カンパ族の男達は勇猛果敢で有名だ。ゲリラ戦で徹底抗戦した。しかも高地での戦いには慣れている。中国はカムでの反乱に対して強行に弾圧した。ニャロン、リタン、カンゼ、デルゲ、パタン、マルカム、セルタで破壊行為が行なわれ、成都やカンゼの空港からから飛立った爆撃機が各地の僧院を爆撃した。しかし、抵抗虚しくゲリラ達は西へと追いやられていく。目指すはラサだ。
1958年10月16日、彼女は逮捕される。そして1985年までの27年間を監獄と強制労働収容所で過ごす。獄中で体験した尋問、拷問、レイプ、過酷な強制労働、相互スパイ、人民裁判は悲惨を極める。人間の生命が、あまりに急速に崩壊していく有様は、ナチスの収容所を彷彿とさせる物語だ。とくに電気ショック棒を使っての女性収容者に対する暴行は決して許されることではない。しかも、その拷問の手段は現在、もっと周到なものとなり、現在、獄中にいるチベット人政治犯達を襲っている。
大躍進と文化大革命の飢餓の世界を生き延びた彼女は1987年、インドに亡命し、現在、ダラムサラで9-10-3の執行部スタッフとして、今なお獄中で苦しむ仲間のために活動を続けている。人々は彼女を慕ってアマ・アデ(アデお母さん)と呼んでいる。

追記。2020年10月7日のJBpressにアマ・アデの訃報が載った。享年88。タイトルは「慄然!中国によるチベット支配の凄惨実態~この世の地獄を27年間も耐えぬいた生き証人の訃報」というものである。記事を書いたのは評論家、エッセイストの勢古浩爾である。元々は8月下旬に「zakzak by夕刊フジ」にジャーリストの有本香(個人的にこういう自民党応援団の自称保守派論客は好きじゃない。まあ、お笑い日本史と呼べる『「日本国紀」の副読本 学校が教えない日本史』『「日本国紀」の天皇論』の著者なので)が書いた記事らしいが、中国武装公船による連日の尖閣諸島近辺の侵犯、カシミールの中印国境でのインドとの武力衝突などの、緊迫する近隣国外状況を指摘したあとで、アマ・アデの訃報を伝えていた。興味をかきたてられた勢古浩爾は、記事のなかで紹介されていた彼女の自伝『チベット女戦士アデ』(1999年5月発行)を読んだそうだ。ちょっと遅いぜ。この本は発売されてすぐに私も購入して読んだ。私の記事のアマ・アデの紹介はこの本によっている。


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