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ダライラマ即位60周年のイベント

2001年11月20日。タシ・カイラシから聞いた話では、今日から3日間にわたってダライラマ14世の即位60周年のお祭りがあるという。会場はテクチェン・チューリンとTIPA&TCVである。20日はテクチェン・チューリンで祝賀行事が行われることになっている。偶然にも私がダラムサラに滞在していたときこの大イベントが開かれることになった。しかもまもなくデリーに帰らなければならない直前である。これは参加せずにはいられない。興奮気味の朝を迎えた。
現在のダライラマ14世が生まれたのは1935年。アムド(東北チベット、現在の青海省西寧郊外、平安県祁家川)のツォンカ・タクツェルである。1933年に死去した先代のダライラマ13世の転生者(生まれ変わり)を捜索していた若干20歳の若き摂政のレティン・リンポチェは、1936年の秋に捜索隊のキャラバンをチベットの3地方、アムド、カム、タクポ・コンポに派遣した。そのうちのアムドへ向かっていたケルサン・リンポチェ率いる捜索隊が少年ラモ・トゥンドゥップを発見し、1939年、ダライラマ14世と認定し、クンブム大僧院での1年の足止めを経た後、当事アムドを牛耳っていた馬歩芳に銀30万枚を身代金として支払ってようやくラサへ迎えられることになる。同行したのは父親のチューキョン・ツェリン、母親のデキ・ツェリン、兄のギャロ・トゥンドゥプとロプサン・サムテン、そしてケルサン・リンポチェ率いる捜索隊とメッカへの巡礼に向かうイスラム商人たちであった。
キャラバン・ルートは高原地帯から肥沃な平原地帯を通ったと思うと山岳地帯に入り、強風吹きすさぶ峠をいくつも越えてブムチュンにいたる。ブムチュンに入れば中国人支配下の領土から抜け出てラサまでは徒歩で2週間の行程である。そしてこのブムチュンでラサからの最初の歓迎団が到着し、ラモ・トゥンドゥップにカターとメンデル・テンスム(三つの贈り物)と呼ばれる久遠実成・釈迦牟尼仏の金の絵、一巻の経典、チョルテン(仏塔)のミニチュアを捧げた。
1940年のラサのロサル(正月)は大変なお祭り騒ぎとなる。政府の暦法師たちが吉日を選び、摂政と国民議会の議員たちが合意し、元旦から4日後の1940年2月22日に即位式が執り行われた。ラモ・トゥンドゥップはジェツン・ンガワン・ロプサン・イェシー・テンジン・ギャツォ・シスム・ワンギャル・ツンパ・メーデー・デ・パルサンポと改名し正式にダライラマ14世となった。そしてテンジン・ギャツォの名前でやがて世界中にその存在が知られることになる。ロイター通信の通信員がいち早くダライラマ14世の即位に言及し、「ロンドン・タイムズ」はそれを大きく取り上げた。熱狂的記事を書いたのは1936年から1950年にかけてラサに滞在したイギリス代表団団長のヒュー・リチャードソンである。
ご存知の方も多いと思うが、ダライラマはいわゆる世襲制ではない。また禅譲でもなく、まず、幼少の頃に、「前世のダライラマの生まれ変わり」とされた子供と認定されなければならない。それは、「前世のダライラマ」が愛用した物を、その赤ちゃん(または子供)が、どう扱うかで決定する。その後、厳しい教育を経て、20数歳で公正な試験に合格して初めて後継者と認められる。「ダライラマ」に認定されるには、政治・宗教に通じ、人格者でなければならない。民衆から観音菩薩と仰がれるような人物でなければならないのだ。
現在のダライラマ14世は、即位した後、1943年から顕教の勉強を開始。1947年には論理学の勉強を開始し、最終的にはチベット仏教最高の学位ゲシェー・ラランパの称号を送られることになる。中国のチベット侵略に際して民衆の声に後押しされて1950年、摂政より政権を返還され、チベットの最高主権者の地位に即位した。以上がダライラマ14世の即位の経緯である。
当日の朝、早めに起きた私はゆっくりと朝食を9-10-3の食堂でとった後、ムーンライト・カフェに行ってチャイを飲んでいた。そのとき、テクチェン・チューリンに人々が集まっていると言う話を聞いた。マクロード・ガンジのチベット人ばかりでなく多くの外国人旅行者たちもテクチェン・チューリンに向かっていると言う。これは急がねばなるまい。もしかしたらダライラマの写真が撮れるかも知れないと思い、大急ぎで書店兼雑貨屋でフィルムを買い、私もテクチェン・チューリンに向かった。ところが、予想以上に警備は厳重であった。まず、カメラを取り上げられ、持ち込み禁止と言い渡された。別の入り口から入ろうとしても、またもやカメラは厳禁である。やむなく9-10-3に向かうショートカットの道を走って戻ってカメラを置き、引き返して会場に入った。その際、ライターまでも取り上げられたのである。金属探知機をくぐったのも言うまでも無い。それだけ厳重にダライラマは警護されているのである。
式典会場にはチベット国旗である「スノーライオン旗」が掲げられ、立錐の余地無く人々で埋め尽くされていた。何とかしてダライラマの姿を見ようとしてもなかなか見える位置までたどり着けない。仕方が無いのでツク・ラカンの2階のテラスに行って見下ろすが、やはりダメである。階下ではさまざまなグループの催し物が展開されている。なかには外国人だけのグループもあり、チベット語で歌と踊りを披露していた。最前列にいたのはTCVの制服を着た生徒たちである。おそらく特別に席を確保してもらっていたのであろう。チベット民族の誇りと宝を目に焼き付けておこうと言う意図があるのかも知れない。
結局、最後までダライラマの姿を見ることなく、午前中の式典は終了した。昼食を挟んで午後からも開かれるらしい。午後からの式典では何とかしてダライラマの姿を見たかった私は急いで昼食をマクロードのスノーライオン・レストランで取り、一足も早く会場に入ろうとして再びテクチェン・チューリンに向かった。
スノーライオン・レストランはこの日はたいそう混んでいた。それもそのはず、ダライラマ即位60周年の式典に参加していた外国人旅行者が大挙詰め掛けていたからである。ダラムサラは外国人旅行者の数に対してレストランの数が限られている。そのため、こうした大イベントの際には定員オーバーしてしまうのだ。ただしシーズンオフのときは滅法旅行者の数が減るので営業もやっていられないのかも知れない・・・
私はいつものようにマトン・トゥクパとラム・モモの組み合わせである。毎日こればっかり食べていたらいい加減うんざりするだろうと思う人もいるかもしれないが、私は飽きなかった。たまにベジタリアンレストランに入って肉なしモモを食べたことはあるが、やっぱりモモは肉が入ってなきゃ。急いで食べ終わって式典会場に向かった。今度こそはダライラマの姿を拝めないと公開してしまう・
幸いなことに午後からの式典ではテクチェン・チューリンの裏手の入り口から入れてもらい(このときも金属探知機とカメラのチェックは免れなかった)、TCVの生徒たちの傍らに場所を確保でき、ダライラマの出現を待った。そしていざ対面である。多くの取り巻きや自動小銃をもった警護のインド人兵たちに囲まれてダライラマが姿を現した。
式典では、午前中と変わりなく祝福の出し物が続き、ダライラマは笑顔でそれを鑑賞していた。隣には2000年の正月に衝撃のチベット脱出を果たしたカルマパ17世ウゲン・ティンレー・ドルジェの姿も見える。そしてもう片方にいたのはチベット仏教サキャ派の管長だったと思う。チベット人のVIPたちが勢ぞろいである。残念ながら出し物はあまり興味があるものとはいえなかったが、ダライラマの姿を見られただけでも幸いである。
長い式典が終わり、ダライラマの退場のとき、なんと私の目の前2mの所をダライラマが歩いているではないか。これほど接近したことは無かった。日本での法話会のときでもボランティアをやっていたにもかかわらず小さなお姿しか見えなかったのに、ダラムサラでは至近距離で見えることが出来た。しかも事前にダライラマの個人的な事務所に申請すれば謁見も可能だと言う。私はCADの授業に追われて謁見する暇がなかったが、今度ダラムサラに言ったときは是非謁見しようと心誓った。

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