見出し画像

ダラムサラとは(パート3)

「それからインドとの国境近くでのこと。明日はインドとチベットとの国境のキンチャンマニに辿り着くという場所だったと思います。その地に護衛部隊とチベット軍、それにチベット政府の役人も結構いました。国境を安全に越えられるのを確認すると、彼らは「中国軍と戦いに行く」と言って、戦場に戻っていったのです。とても心が痛みました。ただ、離れ離れになるだけの別れではない。彼らは中国軍と戦うために引き返すのです。多くの人が帰らぬ人となるのは、間違いないでしょう。胸が締め付けられるおもいでした」
ダライラマ14世。

ダライラマの使者からメッセージを受け取ったインド政府はダライラマを保護するために役人を国境に派遣した。インド国境で熱烈な歓迎を受けたダライラマ一行は、ナムジャン川沿いを10数km進んでジミタンに入り、さらに進んでゴルサムチョルテンという、ネパールでよく見かける目玉が象徴的に描かれた仏塔のあるところに辿り着いた。この仏塔の裏手の寺院でダライラマは休養をする。ルンツェ・ゾンからインド国境まで、過酷な旅であったに違いない。季節は3月後半だが、ヒマラヤはまだ雪深い。
さらにナムジャン川沿いの旧道を辿るとルムラという集落に着いた。ルムラの尾根沿いに並ぶバザールの先にダライラマが滞在した小屋がある。ルムラの集落からは遠くまで谷が見渡せる。その谷を形成しているタワン川がその支流ナムジャン川と合流する地点がインド・ブータンの国境である。
ルムラから2日かけてタワン川を遡って東へ進むとタワンに着いた。タワンはアルナーチャル・プラデーシュ州の西部に位置し、チベット南部に住むメンパ族が多い。タワンは、僧院を中心として、山間の南斜面に広がる大きな町である。タワン僧院は、350年の歴史を持つゲルク派の僧院で、現在でも370人の僧侶が勤行に励んでいる。また、タワンは美しい恋愛詩を残し、チベット人に最も親しまれている放蕩の恋愛詩人ダライラマ6世が生まれた土地でもある。インド国境を越えたと言ってもまだチベット文化圏である。国境からタワンまで100kmあまり。その行程をダライラマは4日で踏破した。
3000mの標高から2000mの谷底まで下り、タワン川を渡り、再び4200mのセラ峠を越えて標高3100mの急斜面の尾根伝いに作られた町センゲに入り、ここで一泊する。ダライラマが到着した夜、60軒ほどあった村中の人々がダライラマを一目見ようと集まったらしい。
センゲから九十九折の道を下り、さらにまた峠を越えるとタワン地方の中心都市、標高2500mのボムディラに入った。ここから先は自動車が通れる道が整備されている。ダライラマ一行はボムディラからジープで一気にアッサム州の中心、ブラマプトラ河沿いに広がる街テズプールまで、190kmの道のりを進んだ。
1959年4月初め、テズプールに着くと、好意に満ちた数千通の電報と、全世界を代表する新聞社の記者や写真班に取り囲まれた。1959年3月31日に「ダライラマとその家族は無事」だというニュースが世界中を駆け巡っていたからである。それだけではない。インド各地からダライラマの姿を見ようと、大勢の人々がやってきた。その中に、あのハインリッヒ・ハラーの姿もあった。ダライラマと彼はテズプールで再会を祝った。
1959年4月8日。ダライラマはインド亡命後、初めての声明を発表した。その内容は、チベット脱出の経緯の説明と政治的避難所を提供してくれたインドへの感謝の意を表明したものである。同時に、「17条協定」は「武力威嚇によってチベット政府と民衆に押しつけられたものだ」として拒否した。これに対する中国の反応は、
「いわゆるダライラマの声明なるものは、実にお粗末な文書である。理論が不具である。嘘と抜け穴でいっぱいである」
「帝国主義侵略者の意思を反映しているにすぎない」
「自分の意思で声明したものではない」
である。
ダライラマとその家族は、デリーの北、ヒマラヤ山脈の支脈の一つにあるムスリーに列車で移動し、しばらく居を構えることになった。インドの裕福な実業家であるビルラ氏が彼らに館を提供したのである。このムスリーで1959年4月29日、ダライラマはチベット亡命政府、つまり中央チベット行政府(CentralTibetan Administration=CTA)を新たに樹立する。そして、「私の政府とともに私がどこにいようと、チベットの民衆はわれわれをチベット政府と認める」と宣言した。
1959年4月27日、ネルー首相と会談する。また、ムスリーでダライラマは国際法律家委員会のメンバーと会見した。国際法律家委員会は、マハトマ・ガンディーの秘書としてインド独立運動に参加し、6年間の獄中生活を体験した評判の高いインド人法律家で、インド法律家委員会の事務局長であり、インド社会党の設立メンバーだったプルショータム・トリカムダにチベットにおける人権侵害の証拠収集のための専門家チームを結成することを依頼した。プルショータム・トリカムダはマハトマ・ガンディーのアヒンサー(無抵抗主義)の後継者であった。ダライラマもまた非暴力主義を提唱している。
亡命政府がまず取り組まなくてはならなかったことは、ダライラマの後を追って過酷なヒマラヤ横断の旅をしてインドに逃れてきていた約6万人のチベット難民の受け入れと、インドでの生活支援である。当面はインド政府と協力して働いている「チベット人避難民救済中央委員会」および世界各国の有志の救済団体が送ってくれた金や食料、衣服、医薬品などの援助物資で賄った。アッサムのミサマリーやブクサ・ドゥアルに難民キャンプが設営された。開設当初は難民の数は数10人であったが、数日後には数100名に増え、4月に入ると3,4千人に膨れ上がり、その後ミサマリーだけで1万2千人を越える数となった。1960年7月には、難民の数は6万人に達する。
インド政府は職業援助を行った。大勢の僧侶たちも混じって、インドに逃れてきたチベット難民の中の強壮な者達は主に道路建設に従事した。また、ダライラマ自身もダージリンとダルハウジーに手芸教習所を設け、チベット人にインドで自立した生活ができる基盤を整備した。そのために、1950年、ドゥンカル僧院へ避難していたときにシッキムに運ばれたダライラマの個人資産がチベット難民支援のために用いられた。
1960年5月、ダライラマと亡命政府はムスリーから離れるようにインド政府から通達があった。ダライラマの存在が大きかったので、ネルーは中国政府から圧力をかけられたのである。ここにきて、ダライラマは窮地に立たされる。しかし、問題は解決する。
ナウゼル・ノウロジーという名のパルシー(イスラム教徒に迫害されてインドに逃れてきていたゾロアスター教徒)の商人がインド政府と掛け合って解決策を提案した。今日、ヒマーチャル・プラデーシュ州になっているパンジャブ地方北端にあるヒマラヤ山脈の支脈のとある村にナウゼル・ノウロジー一家は数名のインド人と共に暮らしていたのだが、そこをチベット亡命者移住地として使えないかというのがその提案である。その、とある村が今日のダラムサラ(アッパー・ダラムサラ=マクロード・ガンジ)である。
インド政府はこの提案に利点を見出した。1955年のバンドン会議以来続いてきたインドと中国の蜜月時代も終わりを告げ、中国との関係が微妙になってきた頃である。ダライラマを辺境の寒村に追いやれば中国の圧力を和らげることが出来る。
1960年4月。ダライラマとチベット亡命政府はダラムサラに移動した。ノウロジーはダライラマとその家族に小さなバンガロー=スワルクアシュラムを提供した。そのうち、バンガローの周辺に亡命政府の事務所や官庁が点在し始めた。
1960年5月、ダライラマの移住に伴って、中央チベット行政府もダラムサラのカンチェン・キション( Gangchen Kyishong=チベット語で「雪国の喜びの谷」の意)と呼ばれる地域に拠点を移した。中央チベット行政府は、チベット人難民の社会復帰とチベットの自由復興を目指している。また、中央チベット行政府はチベットの将来に備え、近代的な民主主義制度を実験的に導入することを決定した。1960年9月2日にチベット亡命議会が発足した。これは亡命チベット代表者議会として知られている。
1962年になっても、ダラムサラは数件のバンガローの他に、ひしめき合うように設営された難民のテントが数100にものぼり、町は「混沌の村」の様相を呈していた。だが、時代が経るのにしたがってダラムサラ=マクロード・ガンジは整備され、ダライラマのパレスも建設され、現在のチベット人の町に発展した。
ダラムサラは、チベット亡命政府=中央チベット行政府の各省庁の他、チベット仏教論理大学、チベット子供村(TCV)、チベット舞台芸術研究所(TIPA)、チベット医学・暦法学研究所(メン・ツィー・カン)、チベット文献図書館(TIWA)、ノルプリンカ研究所、ナムギャル寺院などがあり、チベット文化の中枢地となっている。
ダラムサラは、ダライラマの指導の下、チベット亡命政府をはじめ、6000人以上のチベット人が住み、チベット仏教文化の拠点となっているため、外国人は、ダラムサラのことをリトル・ラサ(LittleLhasa)と呼んでいる。年々チベット仏教文化に関心を示す人々が増え、世界各国から訪れる人々が増えている。ほとんどがダライラマ法王の謁見目的で、他にチベット仏教文化やチベット亡命政権の現状視察目的などもあるようだ。最近では、インド人の観光客や巡礼者も増えている。また、チベット問題の最前線でもある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?