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図書館での仏教講座

2001年11月5日。タシから勧められて、私もカンチェン・キションにある図書館で開催されている仏教講座に通い始めた。仏教講座は午前中の9時と11時の2回に分けて行われている。9時からの講義は、巷のチベット仏教に対するイメージを決定付ける「バルド・トゥドル(チベット死者の書)」についての講義であり、私も興味があるのだが、それを聴講するためには早起きしなければならない。カンチェン・キションまで坂道を下っていって約30分。行けないことは無かったが、薬の影響で早起きすることが出来なかったので、11時からの講義にしばらく通うことになった。11時からの講義はシャーンティデーヴァの「入菩提行論」らしい。そのテクストなら日本のダライラマ事務所でちょっとかじったことがあるので英語の通訳でも少しは理解できるだろうと思っていた。ダライラマも「至高なる道」という著述でこの「入菩提行論」を解説している。
シャーンティデーヴァ(寂天)は7世紀末から8世紀にかけて活躍した人で、唐の玄奘(602~664)よりも遅く、日本の最澄(767~822)や空海(774~835)よりも1世紀前の仏教学者である。インドの大乗仏教は大きく分けて中観派と唯識派に分けられるが、シャーンティデーヴァは中観派に属すると言われている。中観派はナーガールジュナ(龍樹)を祖とし、空性を前面にだして主張する。
この中観派もさらに細かく2つの流派に分かれている。一つはバーヴァヴィヴェーカの系統の自立論証派。もう一つはチャンドラキールティの系統の帰謬論証派である。前者が積極的に三段論法のような論理式を使って空性を証明しようとするのに対して、後者の主張では、空性は否定的、間接的にしか論証できない。シャーンティデーヴァは帰謬論証派に属するといわれている。
ダライラマの解説によると、シャーンティデーヴァは自分の心の中の多雨岩という形でこの「入菩提行論」を記したという。自分の武器を自分に向けて、自分の煩悩と戦ったとされる。ダライラマはこの法話集の中でたびたび経典から一節を引用している。
☆悪行をやめ、
☆善をよく実行し、
☆自分の心を制御せよ。
☆それが仏陀の教えである。
午前10時。Jogibara Roadを下っていくと、左手に先日降り積もったのだろう、ヒマラヤの高峰がうっすらと雪化粧を施されていた。5000mクラスの山なので万年雪は無いが、こうやって雪を頂く高峰を見ると、「あ~~~やっぱりヒマラヤだ~~~」と思う。11月でも日中は半袖のTシャツ1枚あれば快適である。日差しはやや強いものの、風が冷たくて心地よい。
カンチェン・キションには時々やってきていたので迷うことなくたどり着いた。正面入り口の門をくぐって役所が立ち並ぶところを抜けると、ちょっとした高台に目指す図書館が見えてきた。9時からの講座が終わってそれぞれ思い思いに休憩を取っている。チベット人はもちろんのこと、ダラムサラに長期滞在している外国人(欧米人)の姿も多かった。彼らにしてみれば仏教はエキゾチックな宗教で東洋趣味のある欧米人の間では信者も増えてきているらしい。中にはチベットの尼僧の格好をした西洋人女性の姿もあった。おそらく出家したのだろう。
図書館から一団下がった広場にはお茶屋があり、僧衣を着ているチベット人も、ラフな格好をしている西洋人も一緒になってチャイを飲んでいた。その中にタシの姿が見えたので、挨拶でもしようかと近づいていった。するとこちらの気配でも感じたのだろうか?タシも私と認めて手を振り、仲間に入れてくれた。そこにはタシのほかに3人の僧侶がいた。
「まだ、ちょっと時間があるからチャイでも飲もう」
そういうと、私がお金を払おうとしている手を振り解いて店の中に入っていった。残されたのは初対面の4人(私を含む)である。何の話から切り出そうか?英語は分かるんだろうか?と悩んでいるところにタシが私のチャイを持ってきて紹介してくれた。後の3人もメン・ツィー・カンに滞在していて、英語もペラペラだという。私のほうが今度はたじろぐことになった。何を話せばいいのか思案に暮れていると、タシの友人がチベット語の経を取り出してきて「これを見ろ」というようなことを口にした。
チベット語の口語は英語よりも比較にならないくらい出来ないが、文章なら意味はわからなくても発音することは出来る。一字一字、声を出してゆっくり読んでみると、隣に座っていたタシの友人は驚いたようで、
「どこでチベット語を勉強したんだ?」
と言った。
「日本のチベットハウス(ダライラマ事務所)だよ」
相手は理解できたのだろうか?
そろそろ講義が始まるので、我々は図書館の中へと入っていった。会談の手前で靴を脱ぐことになっている。靴を脱いで2階に上がり、講義室に入っていくと、ほぼ半数くらいの主に欧米人の長期滞在者だった。ダラムサラでチベット仏教の勉強をしているんだろうか?私はというといつものように(今回が初めてではない)窓際に座って越壁に凭れていた。時間が来るとおなじみの海老茶色の僧衣を纏った高僧と通訳がやってきてその場にいた全員が起立して礼をした。その後、経の暗誦から入り、高僧によるシャーンティデーヴァの「入菩提行論」の説明が始まった。ところが、チベット語の解説はともかくとして、英語の通訳の言っていることが半分も理解できない。それというのも通訳の責任ではなく、あくまでも私の英語のリスニング力がたいしたことが無かったということだ。ここでも語学の壁にぶち当たってしまった。
それでも、講義の最初と最後に唱えられる経典の一部は私も暗記していたのでここぞとばかりに一緒に唱和した。
「帰依と発心」
サンギェー・チュー・タン・チョク・キィー・チョク・ナム・ラ
(仏法僧の三宝に)
チャン・チュプ・パル・トゥー・ダク・ニーキャブ・スー・チ
(菩提を得るまで帰依すべし)
ダク・ギィー・ジン・ソク・ギー・ペー・スー・ナム・キー
(六波羅蜜の功徳を積み)
ドー・ラー・ペン・チル・サン・ギェードゥプ・パル・ショク
(衆生のために成仏せん)

「普廻向」
チャン・チュプ・セム・チョク・リンポチェ
(最勝なる菩提心の宝が)
マー・キェー・パー・ナム・キェー・キュル・シン
(【いまだ】生ぜざる者たちにも生ぜんことを)
キェー・パー・ニャム・パー・メー・パ・イー
(生じたる【菩提心】は減衰せずに)
コン・ネー・コン・トゥ・ペル・ワル・ショク
(益々増大せんことを)

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