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ラルンガル五明佛学院

起きたのは深夜1時過ぎだったろうか。とりあえずコーヒーを2杯流し込み、MAWのミックスCDを聴きながら「Fool's mate」1986年3月号を読む。私が持っているMAWのミックスCDはほとんど90年代に買ったもので、いま聴くとやはり古さが否めない。当時は最先端の音楽だったのに、時の流れは残酷である。サルソウルやウエストエンド、プレリュードなどのクラブクラシックになればそれなりに古さも味になるのだが、90年代はちょっと中途半端だ。断酒6日目。
今読んでいる「Fool's mate」1986年3月号であるが、高校時代に必ず読んでいた覚えがあって、遡ってバックナンバーもかなり集めていたのだが、大学入学とともに全て処分してしまったのは、今から考えると残念でならない。昔の雑誌と切って捨てるにはあまりにもったいない雑誌であった。その時代の空気感とか青春の思い出が詰まっているのである。もう廃業した近所の古本屋に数冊売っていたのが奇跡だ。
改めて「Fool's mate」を読み返して、蘇って記憶を拾っていきたい。まずは、如月小春。
如月小春はその当時としては日本のローリーアンダーソンと評される最先端を行く劇作家、演出家、エッセイストで、野田秀樹・渡辺えり子らとともに1980年代の小劇場ブームをリードした存在である。また、エッセイストとしての著作も多く、司会者・コメンテーターなどとしてもテレビにも出演していたほか、アジア女性演劇会議実行委員長・日本ユネスコ国内委員会委員・兵庫県立こども館演劇活動委員・立教大学講師なども歴任した。
大学在学中に東京大学とのインターカレッジ劇団、「劇団綺畸(きき)」で活動を始め、1976年に処女戯曲 「流星陰画館」を発表した。その後「ロミオとフリージアのある食卓」(1979年初演)、「ANOTHER」(1981年)、「工場物語」(1982年)などの作品を次々と作・演出した。同じ劇団に吉見俊哉、瀧川真澄、竹内晶子がいた。
1982年、「綺畸」を脱退。翌年自らの劇団「NOISE」を設立し、「DOLL」(1983年)、「MORAL」(1984年 –85年)などを上演した。私が彼女を知ったのはこの頃である。これらでは音楽・映像など他分野とのコラボレーションによる、従来の演劇の枠にとらわれないパフォーマンスが行われた。劇団「NOISE」には約30名の劇団員が所属し、マスコミからは「都会派演劇集団」と評されることもあった。2000年12月、クモ膜下出血により死去。私の青春時代を彩っていった人が次々と亡くなっているのは、まさに諸行無常を感じてしまう。悲しいことだけど、やむを得ない。
同じく、「Fool's mate」1986年3月号の今月のレコードのコーナーで紹介されていたジーン・ラヴズ・ジザベル。超美形の双子、アシュトン兄弟がフロントを張っていたという事実だけで、十分にインパクトがあり、私はその妖艶さが好きだった。ポジティヴ・パンク〜ゴスのムーヴメントがUKで花盛りだった1983年にアルバム「Promise」でデビュー。続く「Immigrant」(日本語のタイトルは「過ちの美学」。誰がこんなタイトルをつけたんだか?)は初期傑作との声が高く、硬質なギターと夢想空間をつくりだすエコー処理、妖しく翳りをもったヴォーカルは今聴いてもなかなかに刺激的。「Immigrant」のレコード評ではポスト・ヴァージンプリューンズとか、ポスト・ジョイディビジョンと高評価だった。4thアルバムを最後にマイケルが脱退し、「双子のフロント」という一枚看板は崩れるが、バンドは活動を続行。私はこの頃にはもうこのバンドの追っかけはやめてしまった。ポップ色を強行に打ち出していき、90年代初頭にはハードなアメリカン・サウンドに移行しているが、この辺りからファンの間では賛否両論を巻き起こしている。この傾向は、同じポジティヴ・パンク〜ゴスのムーヴメントの文脈で語られるサザンデスカルト→デスカルト→カルトにも言えることだが・・・
同じくレコードコーナーで紹介されているコクトー・ツインズ。1985年の2枚のシングル「Tiny Dynamine」と「Echoes in a Shallow Bay」が紹介されている。このグループも私が好きだったレーベルの4ADの代表選手で、ずっとレコード(懐かしくて後にCD)を集めていたのだが、4ADを離れて1993年にリリースされた7枚目のアルバム 「Four-Calendar Café」以降は買わなくなった。どうも私は、個々のアーティストよりもレーベルカラーが好きだったようだ。その4ADも変わってしまったが・・・私が好きだった4ADらしさとは、退廃的な音と耽美的なデザインの一致だったり、ゴシック調のスタイルを特徴としたアーティストだったりしたわけだが、1990年代にロサンゼルスにオフィスを設けたあたりから変質していく。
コクトー・ツインズが、フレイザーの声は幽玄と粗野が入り交じり、ガスリーの強いエフェクトがかかったギターと結びついた2枚目のアルバム「Head over Heels」で追求し始めたスタイルは、1990年にリリースされた6枚目のアルバム「Heaven or Las Vegas」で頂点に達し、商業的に最も成功したが、4ADの創始者アイヴォ・ワッツ=ラッセルとの諍いやガスリーのアルコールを含む薬物中毒等が原因で、バンドは4ADと袂を分かつこととなる。アルコールを含む薬物中毒と聞けばほうっておけない私である。何があったのだろう?コクトー・ツインズは、英国その他ではマーキュリー・レコードのフォンタナ・レーベルと契約を結び、アメリカではキャピトルとの関係を維持したとのことだが、5枚目のアルバム「Blue Bell Knoll」 や 「Heaven or Las Vegas」 での処理を重ねた複雑で重層的なサウンドから離れたのも、私が聴かなくなった原因でもある。どうもUKのアーティストがアメリカナイズされると良いことない。
昼前に会議から帰ってきて、昼食を食べたあと、やっとのことで「Fool's mate」のバックナンバー4冊を読み終えたので、久しぶりに「チベットの祈り、中国の揺らぎ」の続きを読み始めたところで「ラルンガル」の話題に読み進んだ。
以前にも説明したかもしれないが、ラルンガル五明佛学院(よくラルンガル・ゴンパ=ラルンガル僧院と書かれているが、厳密にはゴンパ=僧院ではない)は、中国四川省カンゼ・チベット族自治州色達(セルタ)県にある世界最大の仏教学院である。標高4千メートルの高地に、4万以上の修行小屋が立ち並ぶチベット仏教の聖地だ。隔絶された地であるにも関わらず、1980年当初はチベット仏教ニンマ派の高僧ジグメ・プンツォクの家に集った少数の弟子たちのみであったが、2000年までに約1万人、2015年には4万人に達した。何度も中国政府による破壊を受けながらもその都度再建を続けている。2017年3月11日にはNHK BSプレミアム:「天空の“宗教都市” ~チベット仏教・紅の信仰の世界~」が放映されている。ラルンガルに関しては大阪工業大学の川田進による「天空の聖域ラルンガル ―東チベット宗教都市への旅(フィールドワーク)」が詳しい。
ここの特徴は漢族の修行者が多いことである。台湾、シンガポール、マレーシアの漢族も多いが、一番多いのは中国本土の漢族である。中国は今、宗教ブームの中にある。多くの漢族が経済的な余裕を得るとともに、心の拠り所を求めて、中にはチベット仏教徒になる者も増えつつあり、ラルンガルに集まってくる。「ワシントン・ポスト」の記事によれば、漢族が多数を占める中国東部の豊かな都市で、チベット仏教の僧侶たちが秘密裏に多くの信者を抱えている。記事に登場する四川省出身のチベット人僧侶は北京、江蘇省、山東省を中心に1万人の信奉者がいると述べている。ラルンガルはひとつの都市になり、中国移動通信(チャイナ・モバイル)、中国聯合通信(チャイナ・ユニコム)の営業所の他に、生活するための多くの商店がある。これからの中国から目が離せない。
チベット仏教には大きく分けて4つの宗派がある。ニンマ派、サキャ派、カギュ派(いくつもの支派があり、最も有力なのはカルマパを擁するカルマ・カギュ黒帽派である)、そしてダライ・ラマのゲルク派である。亡きパンチェン・ラマ10世の遺言もあって、ラルンガルではどの宗派にもよらないチベット仏教の総合大学を目指していると言われているが、川田進氏の講演会があった時にレジュメにゲルク派の僧侶は確認できなかったと書いてあったので、あとで質問してみたら、「ニンマ派とゲルク派は仲が悪いですからね」とのこと。希望者にはラムリムなどのゲルク派の開祖ツォンカパの論書も教えているとのことだが、ゲルク派から見るとニンマ派なんて、という態度らしい。

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