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4. トゥーレ協会とナチス党の創立

紋章によれば、トゥーレ協会は1918年にミュンヘンで設立されたとなっている。しかし、それ以前に、サガと並び北欧神話研究における重要な資料の一つとされている古ノルド語のエッダのドイツ語翻訳者フェリックス・ニードナーによって、1910年にトゥーレ協会は設立されていた。その後、1918年、ルドルフ·フォン·セボッテンドルフがミュンヘン支部を設立した。トゥーレ協会の正式名称は「トゥーレ協会・ドイツ性のための騎士団」といい、「スワスティカ=卍」と剣をシンボルマークとした秘密結社であった。
セボッテンドルフは以前、イスタンブールに数年住んでいた。1910年、彼は難解なスーフィズムとフリーメーソンを組み合わせた秘密結社を形成した。彼は十字軍の間に栄えていたイスマーイール派イスラム教のナザリ派から派生した、暗殺者の信条を信じていた。イスタンブールにいた頃、セボッテンドルフはまた1908年に青年トルコ党の汎トゥラン運動に明らかに親密になっていた。その運動は1915年-1916年のアルメニア人大虐殺の背景をなしていた。トルコとドイツは第一次世界大戦では同盟国であった。
ドイツに帰ると、セボッテンドルフはまた1912年に設立された右翼社会である反ユダヤ主義の「ゲルマン騎士団」(チュートンの騎士)のメンバーとなった。「ゲルマン騎士団」は、1905年から1918年に雑誌掲載された「オスターラ」の著者として知られ、あやしげな人類学の説を唱え講演や集会を行ったオカルト学者ランツ・フォン・リーベンフェルト(1874–1954)が1889年に設立したオカルト結社「新聖堂騎士団」が前身である。「ゲルマン騎士団」は、ランツと同様のオカルティスト、ギィード・フォン・リストの設けた「アルマネン秘法伝授団」と1912年に合併して設立された新秘密結社である。
「ゲルマン騎士団」は、神秘的な秘儀伝授の色合いを持っていたが、その中核をなす思想は、ドイツ民族主義である。同結社は、第一次世界大戦によるドイツの敗戦以降、社会主義、共産主義との対決姿勢を示すようになる。オーストリア出身であるといえる「ゲルマン騎士団」が結束を固める一方、ドイツでは、敗戦の1918年にはルドルフ・フォン・ゼボッテンドルフによって設立されたトゥーレ協会の動きが活発化していた。この結社は、純然たる神秘学研究集団であった。しかし、前述の「ゲルマン騎士団」と交流するうち次第に政治的色合いを濃くし始め、民族主義的思想のもとに、貧弱な敗戦内閣の転覆を企てるほどになる。しかし、それより早くに力をつけた共産主義者の赤軍兵士により、1919年に急襲をうけ、「トゥーレ協会」は一時解散し、地下へと潜ることとなる。これらのチャネルを介して、暗殺、虐殺、そして反ユダヤ主義は、トゥーレ協会の信条の一部となった。
トゥーレ協会は、ドイツ労働者党(DAP)、のちの国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチス)に深いかかわりがあった。設立メンバー3人の一人が、ランツ・フォン・リーベンフェルトだったからである。リーベンフェルトの自伝『ヒトラーのアイデアだった男。国家社会主義の宗派の原則』(1985)の中で、著者のウィルヘルム・ダーム(ウィーンの医者)は次のように記している。「トゥーレ協会の名は、神話のトゥーレ、つまり消滅文化である北欧のアトランティスからとった。トゥーレに住む超人の民族は、魔力を通じて宇宙と繋がっていた。彼らは20世紀をはるかに上回る精神的・技術的パワーを持っていた。この知識をもって祖国を救い、新しく北欧・アーリア・アトランティックの民族を生み出さなければならない。新しいメサイアが現われて、人々を目的地へと導くだろう」。
SA (突撃隊)の歴史を記した彼の著書『ゆるぎなく堅固に歩む』(1998年)では、1943年から1945年までヨーゼフ・ゲッベルス宣伝大臣の副官を務めたウィルフレッド・フォン・オーフェンが、トゥーレ協会のトゥーレは歴史的にピュテアスのトゥーレであることを確認している。
トゥーレ協会の表向きの協会の目的はゲルマン古代の研究であったが、実際にはゲルマン騎士団員グイド・フォン・リストによって神智学を元に提唱されたアーリア主義を範として、民族主義と結びついた異教的神秘主義・人種思想・反ヴァイマール共和国的扇動、反ユダヤ的プロパガンダを広めることだった。反共産主義は、1918年にバイエルンの共産主義革命の後にミュンヘン・トゥーレ協会の反革命運動の中心となった。
1919年に、トゥーレ協会は、ドイツ労働者党を生み出した。その一年後、トゥーレ協会の内部サークルのメンバーであったディートリヒエッカート、協会にヒトラー加盟させ、アーリア人の超人を作り出すためにヴリルを活用し、その方式で彼を訓練し始めた。ヒトラーは幼少のころから神秘的な志向であり、ウィーンでオカルトや神智学を勉強した。その後、ヒトラーはエッカートのために『我が闘争』を書いた。そして1920年に、ヒトラーは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)と名前を変えたドイツ労働者党の総裁になったのである。

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