デトロイトテクノ
シカゴハウスに続いてデトロイトテクノについて語りたい。
デトロイトテクノは、アメリカのミシガン州デトロイトから発信されるテクノ、またはデトロイト出身のアーティストに共通してみられる特徴を多く含んだテクノの楽曲をさす。主に「16ビートのシーケンス」「アナログシンセサイザーとドラムマシン、及びそれらのサウンドをエミュレートしたデジタル・シンセサイザーの多用」「ストリングス・パッド系音色の多用」「ノンヴォーカル」などの特徴がある。派生元のシカゴハウスと比較して、シリアスな雰囲気で複雑に入り組んだリズムパターンを持つ楽曲が多い。
ホアン・アトキンス、デリック・メイ、ケビン・サンダーソンら、1980年代中期にデトロイトにて活動していたDJ、プロデューサーたちが御三家といわれている。
ビル・ブルースターとフランク・ブロートンによる著書「Last Night A DJ Saved My Life」によると、もともと「デトロイト・テクノ」はデトロイト近郊にあるシカゴから生まれたハウスサウンド(シカゴハウス)をデトロイトのアーティストが独自解釈した音楽であったとされている。
ホアン・アトキンスは、テクノシーンにおけるキーマンの一人とされ、「テクノのゴッドファーザー」とも呼ばれデトロイト・テクノの創始者。デリック・メイ、ケビン・サンダーソンらにDJテクニックを教えクラブテクノの基礎を作った。高校時代に弟のアラン・アトキンスを通じてデリック・メイと出会い、ほどなく親友となる。ホアンはデリック・メイに対して多大な音楽的影響を与え、デリック・メイは「デトロイト・テクノとはホアン・アトキンスのことである」とも語っている。音楽活動の開始は1981年。リチャード・デイヴィスと共にCybotron名義でシングル "Alleys of Your Mind" をリリースした。これはデトロイト・テクノの最初のレコードとみなされている。Cybotronは1983年に活動を終了する。1985年には自身のレーベルであるMetroplexを設立し、またModel500名義でのソロ活動を開始。「No UFO's」など数々の作品をリリースすると共にR&Sレコーズ、Tresorなどヨーロッパのレーベルからもリリースを開始する。活動の中心はModel500名義だが、Infiniti名義、Model600名義、本名名義の作品もリリースしている。
デリック・メイがテクノに関わるきっかけは、高校の同級生であったホアン・アトキンスからシンセサイザーを駆使した音楽を教えてもらったことに始まる。既に音楽活動を開始していたホアン・アトキンスに影響され、1986年に自身のレーベルであるTransmatを設立する。1987年に同レーベルからRhythim Is Rhythim名義で自身の最初の曲「Nude Photo」をリリース。1988年には、後の代表曲の一つとなる「Strings Of Life」をリリースした。自身のTransmatレーベルでは、数多くのアーティストを発掘している。デリックの1番弟子カール・クレイグ、2番弟子ケニー・ラーキンや3番弟子のステイシー・パレン、他にもサバーバン・ナイト、オクテイヴ・ワン、ジョ工イ・ベルトラムらがTransmatからリリースを行っている。彼らの一部は後にデトロイト第2世代と呼ばれるようになる。自身の曲は、シカゴハウスへも大きな影響を与えている。なお、ホアン・アトキンスが当時シカゴでDJをしていたフランキー・ナックルズにローランド・TR-909を売ったのがシカゴハウス誕生のきっかけの一つと言われているが、909の売却にはデリック・メイは反対したと言われる。
ケビン・サンダーソンは、ニューヨーク州ブルックリン生まれ。後ミシガン州デトロイトに引越し、高校でアトキンス、メイと同級生となる。この間に音楽的影響を受け、音楽活動を開始する。 音楽活動初期は、他の2人と異なりヴォーカルが存在するバンド活動もしていた。Tronik House、Reese Project、Essaray、E-Dancerそして1988年にシカゴ在住のパリス・グレイを女性ヴォーカリストとして迎えて結成し、商業的に最も成功したInner Cityである。インナーシティでは「ワッチャ・ゴナ・ドゥ・ウィズ・マイ・ラヴィン」が注目を集めた。この曲は、ステファニー・ミルズのR&Bヒットのカバーである。現在はDJ活動、ソロ活動を行っている。また自身のレーベルKMSレコードも運営している。女性ボーカルと組んだこのプロジェクトは彼の活動の中で最もヴォーカルハウス色が強いものであり、また彼はこのプロジェクトにより初期テクノを代表するデトロイトの三人の中でも最も商業的に成功したといわれている。