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10-1.遠征隊の起源

親衛隊隊長ヒムラーは彼自身の評判を利用するため、エルンスト・シェーファーにナチスのプロパガンダと彼の将来の計画について尋ねた。エルンスト・シェーファーは、彼がチベットへの別の遠征を指揮したかったと答えた。
エルンスト・シェーファーは、ミュンヘン大学で動物学、特に鳥類学を学んだ。若い時に、アメリカのフィラデルフィア科学アカデミーが支援したチベット遠征隊に参加し、東チベットを調査旅行した。そして『神秘のチベットの調査と探検』と題した旅行記を出版した。1937年と1938年には、2巻から成る東チベットと西部シナの旅行記が出版された。『知られざるチベット』と『世界の屋根』である。シェーファーはこの旅行記と報告書によって、若くして優れた探険家としての地位を確立していた。
エルンスト・シェーファーは、彼の要求で示されたチベットへの遠征は、外務省の文化部や「ドイツ研究協会」の後援の下にあることを望んだ。ヒムラーはアジアの神秘に魅了され、したがって、彼はそのような遠征を「SSアーネンエルベ」の後援の下に送り、そしてシェーファーがアーネンエルベを推進したハンス・ヘルビガーの「宇宙氷論」のような疑似科学的な理論に基づいて研究を実行することを望んだ。シェーファーは科学的な目的を持っていた。したがって彼はエドモンド・キスをこの理論の熟達し、彼のチームに含めることを拒否した。そして科学的な自由を得るために12の条件を要求していた。
したがって、アーネンエルベのヴォルフラム・フォン・シーヴァースは遠征の目的に関する批判を表明し、アーネンエルベはそれを後援しなかった。ヒムラーは、そのすべてのメンバーがSSのメンバーであることを条件に遠征隊を編成することを受け入れた。遠征を成功するために、シェーファーは妥協しなければならなかった。遠征の準備中に、エルンスト・シェーファーは、彼の隊名に「シェーファー遠征隊1938-1939」を使用し、ビジネスマンからの後援を望んだ。
しかし、正式名称は「アーネンエルベ」からヒムラーの親衛隊全国指導者の庇護下の「エルンスト・シェーファーのドイツのチベット遠征隊」に変更される必要があった。親衛隊全国指導者は国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の親衛隊の最高指導者の称号である。1926年に新設された称号で、本来的にはナチ党内部の地位であり、国務大臣や国防軍の司令官といった国家としての職ではなかったが、ドイツ国防軍における元帥にほぼ匹敵する地位であった。
その時には、ドイツ語の新聞や学術誌において遠征隊はまた、ハインリヒ・ヒムラーがその主な出資者であり、遠征隊の役員の5人がSSの隊員であったために、一般的にSSチベット遠征隊と呼ばれていた。後者の指定はまだ現代の学者によって使用されている。スタンフォード大学のフーバー研究所の1914年から1944年の公文書における「ハインリヒ・ヒムラー論文の記名」の中では、遠征隊に関連する材料を含むフォルダは「1939年のSS-チベット遠征隊」とタイトル付けられている。

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