さなぎ
※嘔吐等、精神的に負担になる可能性のある表現が用いられています。
注意して閲覧・利用してください。
大切なものはぜんぶ、この匣に入れておこうね。
先輩はにっこり笑ってその匣のフタをしめた。
透き通った旋律、陽に透かせる譜面、連ねた詩。
みんなひとつに収めると、きらめきが内側いっぱいに閉じ込められる。
始めはなんだったか。
こがね色の部室、階段下の元物置。
秘めやかなトイピアノ、譜面をめくる指先。
焼き増しを繰り返し彩色して季節が巡る。
拝啓、
あなたに伝えなくてはならないことがあるような気がして
筆をとりました。
届くのでしょうか。
まだあなたはこの住所にお住まいでしょうか。
もう、とうに家を出ていますか。
返信を求めているわけではないのです。
ただ、どうにもならなかった僕が、清算を目論んだだけで。
先輩があのあたたかな巣からはばたいていったあとの、
僕の有り様を見てほしいとは思いません。
伝えなくてはならないことがあるような気がしました。
僕が、あのほこりっぽいこがね色の匣をどんなに愛していたか。
あのはこに響く戯れのトイピアノが、どんなに僕を縋らせたか。
そうしたことを吐露したいわけではありません。
......手紙はだめだった。敬具までたどりつけない。
ペンと相談するほどに嘘が並べ立てられるのだった。
本当のところはわかっている。
「好きでした」とか、「今もまだ想っています」とか。
......「僕、死のうと思っているんです」とか。
本当に伝えたいことはわかりきっていた。
ただ、自分の本心が何を求めているのかだけがわからなかった。
やわらかいトイピアノの音が聞こえてくる。
金色の部室に先輩の笑い声が響く。
花のほころぶようにひそやかで、蜜みたいに甘い笑い声。
僕が笑わせた。
なにかユーモアにあふれたジョークを言って?
なにかすばらしい旋律を奏でてみせて?
なにかいい詩をうたって?
できない。
どれひとつ僕にはできない。
嗤われているのに違いなかった。
空想がおわる。回想が終わる。
夢から醒めるように、
不快感とないまぜになった陶酔感がおわって、
ただ胸元の痛みと苦しみがそこにやってくる。
死にたくない。死にたくないと感じる。
痛い。どこかに錠剤がつかえているみたいだ。
夢中で吐く。しぼりだすみたいに吐く。
耳鳴りがひどくて、
世界がぐるぐるまわって、
鼻水と涙と唾液が一緒くたになってぼたぼた垂れる。
伸びた爪が喉を掻き切る。
腹筋が大きく痙攣して、
粉っぽい錠剤の塊が血液混じりに吐き出された。
助かった。助かった。ひとまず命をひろったようだ。
どっと汗が吹きだして、心臓が頭の中で拍動しているみたいだった。
余韻で痙攣する腹筋は、先刻胃に入れたアヒルの餌みたいな
かさかさの食パンに至るまですべてを吐き出した。
安堵はほんの一呼吸だけ。
惨めさが、質量を確かなものにして頭蓋を占拠する。
手紙をだしてしまっていなくてよかった。
僕にはとても無理だった。
部室に満ちていたこがねの光が手の隙間からこぼれていく。
トイピアノの音が霧散する。
笑い声もほどけて、空間のどこかへ消える。
指先のシルエットまで一度にあやふやになってしまったみたいだった。
あの部室に、融け合った記憶が満ちる。
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