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ブレイディみかこ『女たちのテロル』+『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』2019

 2005年発表の短い記事に未だに拘っているのもどうかとは思いますが、自分はブレイディみかこさんにずっと訊きたかった事があった。ちょっと前に運良くお話しする機会があったので「ヨーコ・オノ、矢野顕子、ビョーク、のあの系統だけはわたしにはようわからん。」てのはやっぱ今でもそうですか?と訊いたところ、それへのお答えは当時書かれていた通りの「『少女』か『母親』の要素しかなくって、その間の『女』の要素がない。」というものだったので、ひとまず判ったのは自分は矢野顕子もビョークも音楽家としては好きだけれど、確かに「女」の要素の有無という観点で考えたことはなかった…という事でした。それは自分がゲイだから「女」の要素に関心がない、つうのは安直な解決に過ぎるというもので、なおかつゲイの中にも過度に「女」に拘る傾向は一定程度あるので(ドラマ・クィーン的なもの、と言いますか実態から限りなく離れながら「女優」「ヲンナ」みたいなものを際限なく拡大解釈して喜ぶ姿勢と言うか、いずれにせよフィクションやゴシップの消費の仕方として考えると「男性同性愛者が女性にプロレスやらせて喜んでる」みたいな居心地の悪さはずっと感じている)あまりでかい属性で括るわけにもいかない。で、そして何よりみかこさんにとっての「女要素欠落問題」はそういった類のものではない、という事が今年出た『女たちのテロル(岩波書店)』を通して読んでやっと何となく判ったような気がしたのでした。

「何の障碍なのか。ともに闘うための障碍である。あなたは好みです。性的に惹かれるし、一つの布団で眠りたい。けれどもそれだけでは私にはダメなんです。と(金子)文子は明確に言っているのだ。」p. 101

「それは、『私はどうやら自分の命は惜しくないらしい』ということを彼女自身が明確に悟った瞬間でもあった。そのとき、エミリー(・デイヴィソン)は個人の人生よりも、もっと長いスパンの何かに接続したのかもしれない。」p. 73

「マーガレット(・スキニダー)は銃を構えて、慣れた手つきで撃ち始めた。自分の弾が命中して英兵がばたばたと倒れていくのが見えた。私が撃つすべての弾が共和国の独立宣言だ、とマーガレットは思った。」p. 124

 本書で描かれるこの3人の「女たち」はいわゆる「少女」あるいは「母親」としての姿を取らない。金子文子に至っては年齢的に少女ではあっても世間一般が何となく予想する「少女」とは随分と違う思考に基づいて行動する「非常に若い女性」である。ざっくり「男/女」で分けられたときに社会の側が強固にイメージを規定してしまうのが「少女」及び「母親」であり、そのイメージはいい加減なくせに矢鱈でかくて重いので個人の力でそこから抜け出すのは非常に困難だ。彼女たちがどんな偉業を達成しても「少女なのにすごい」「母親なのにえらい」みたいな上乗せオプション扱いになってしまう。そんなイメージに乗っからず自分はやりたいように生きる、と主張すること自体が「テロル」になってしまう百年前を生きた3人は、少女でも母親でもない存在として自分の人生を使い切った。そして百年が経った今でも、わたしを生きさせろ、とシステムの方に向かって突進できる人はごく少ない。システムの側からすればテロ攻撃になるだろうが、主義主張(や誰かとの恋愛)によるのではなく、ただ自分として生きると決めた人がテロリストになってしまう制度の側に綻びがあるのだ。殉じるのであれば自分にのみ、という姿に著者が共鳴しているのが振動として伝わってくる一冊なのでした。

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 『女たちのテロル』のすぐ後に出た『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー(新潮社)』はブレイディみかこさんが「母親」として、近所の中学校に通うようになった息子を主人公に綴った日々のあれこれである。自分は4年ほど前にこのご子息くんにに東京でお会いしたことがあるので、テキストだけで読む以上の余計なヴィジュアルが浮かんでしまうのですがそれはまあどうでもいい。大体4年も経てばもう全然違ってる事だろう。

「いろんな家庭のいろんな子どもたちがいた。同性愛者の両親を持つ子ども。週日は義理の母と暮らし、週末になったら実母の家に泊まりに行く子。女装のパブシンガーの父親を持つ子ども。彼らは自分の家族が他の子の家族と違うことをまったく気にしていなかった。それぞれ違って当たり前で、それを悪いとも良いとも、考えてみたことがないからだ。」p. 165

 このパートが含まれる第11回「未来は君らの手の中」が新潮社のPR誌「波」に掲載されたのは、同じく新潮社が出していた雑誌「新潮45」に杉田水脈が書いた与太文章及びその次の号掲載の援護射撃与太文章ズ特集により抗議行動(自分も自民党本部前に行った)が起きて「新潮45」が潰れた直後だったのでしたが、自分はこの連載を除く新潮社は思いっきり潰れて構わない(今でもだよ)と思いながら届いた「波」の最新号をビミョーな気持ちで開き、『タンタンタンゴはパパふたり』を読み聞かせた子どもたちについて綴られた文章から、それぞれの持ち場で闘い続けるってのはこういう事なんだよ、と言う声を聞き取りました。

みかこさん、ありがとう。

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