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『カランコエの花』監督:中川駿(2016)

レインボー・リール東京が東京国際レズビアン&ゲイ映画祭という名称だった頃から既に、日本作品のコンペティションプログラムは観ないようになっていた。観たほうがいいんだろうな、と思いつつ常に優先順位リストには入らなかったので、日本の作品がどうなっているか、がさっぱり判らないのはひとえに自分の問題ですがこの『カランコエの花』は2017年のレインボー・リール東京(映画祭全体ではなく、日本作品コンペ)でグランプリを取っている。予告編はこちら

監督のインタヴューでもきちんと説明されているように、視点はヘテロセクシュアルである周囲の人間に定められていて、というよりは「LGBT」というヌエのような存在が実体として現れそうになった時の、ひとつのうまく行かなかったパターン、というものが描き出されている。高校生役の俳優陣がとりわけ巧みな佇まいで映っているので、観ているこちら側が気恥ずかしさを感じるような居心地の悪さは無くするっと観られてしまう(39分という短さのせいもあるけれど)。

誠実でありかつ繊細な作品であるのは間違いないので、同じく繊細で真面目な観客に迫るものを充分に持っているのは確かなのですが、ゲイとしてノー・バジェットのゲイ映画を作っている自分の正直な気持ちとしてはこれを、それこそ映画に出てくるような(特に10代までの)性的少数者の前に差し出すのは残酷に過ぎるだろう、ということで、勿論それは当事者側が生み出す作品の圧倒的な少なさのためであって『カランコエの花』の責任ではない。それにしても。

『カランコエの花』のストーリーにおける全元兇、というか一番やらかしてしまうのは生徒ではなくて保健の先生(生徒から「花ちゃん」と呼ばれている辺りからして精々「キレイで優しいおねえさん」くらいにしか扱われていない)であって、彼女が良かれと思ってサル山にバナナを一本投げ入れてみたところ、たちまちに目も当てられない惨状が現出する。狡猾に策を弄すタイプの、ある意味で惚れ惚れするような悪いやつが画策したわけではない禍事は、制御が効かない(=誰も責任を取らない)ために時に無意味なほどに事態を悪化させる。

この映画の物語としての枠組みは、それこそこれまでも散々作られてきた「性的少数者が社会の圧力に耐えきれず死を選ぶ」という作品の系譜に連なるもので、この映画は実際に誰かが死ぬ話ではないものの、その人が不在になることによって初めて知覚される存在感が周囲の人間を打ちのめす(ただしおそらく本人は救われない)という、生き残った人間が気持ちよく涙を流すのに都合のいい「おはなし」になってしまっている。そして、当事者も周囲の人間も、ほとんどすべての繊細な若者たちが音もなく折れていく(終盤の、主人公が授業中に泣くシーンの音がオフになっているのが象徴的)さまを眺めながら、ああとっても日本っぽい、日本っぽいなあ、と思うばかりなのでした。

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