判断基準

はじめに


"自分は物事を判断する時、何を考えて行っているのだろう。"と時折考えることがある。
筆者が『正義マン』だった中学生時代は、ルールに反していないかどうかを執拗に気にしていた。
"法律を破るから"であったり"校則を破るから"とパターンはあれど、ルールを守るという考えは誰しもが持つものだと思う。
だが、ルールというものは破られるものであって、皆が同じ判断基準を持っているとは言えないようである。

ルールを破る時、人は何を考えるのか

ルールがない場合や、認知されていない場合を除き、ルールが破られないとするならば皆同じ判断基準を持つと言えるであろう(暴論であるが)そこで、ルールが破られる時にはどの様なパターンがあるのかをみていく。

①ルールが間違っていると判断する時

②ルールは正しいと思っているが、自分の中に許容範囲を設ける場合

③ルールを破り然るべき罰を受けようとも、それを実行したいと思う時

②は①に含まれるような気もするが、大きくこの3つではないだろうか。
例を挙げるなら、①は18歳でもお酒を飲んでも良いだろう!と考える場合
SNSで未成年飲酒をアピールしたり、他人に迷惑をかけたりするのはNGだが、家で一人で飲むならいいだろうというのは②
③は、罰金でも刑務所入ってもいいから酒が飲みてえ!というものである。

私はこの②の部分にその人らしさ、悪く言えば異質さが出てくるのだと考えている。

他人との同調

人の判断基準に大きな影響を与えるコンテンツの1つにTwitterがある。
私はTwitterに凝っており、他人との会話ではいつも「この前Twitterで見たんやけど〜」から始まる。Twitterでは様々なつぶやきが発信されるが、伸びやすいつぶやきの特徴に"共感"がある。多くの反応があり、皆が共感をしているつぶやきがタイムラインに流れてきた時は自分も共感しようと見てしまうものだが、共感できない内容だった時、多数派の意見に流されて自分の異質さは修正されていく。

『こんな友達とは付き合いたくない』というつぶやきを見れば自分の立ち振る舞いを変え

『○○が好きなオタクは話が通じない』というつぶやきを見れば趣味を公言できなくなる

何を今更、と思われるかもしれないが、私はこのようにTwitterに修正されていく自分を恐ろしく感じることがある。自分らしさを削られていって最後に残るものはなんなのだろうか。

筆者の判断基準

だらだら取り留めのない話を続けてしまいそうなので、私の今持っている判断基準を書いていく。
私は"他人の記憶に残る"ような生き方をしようと努力している。そして、その為には異質さが必要だと考えている。
以前は"おもしろさ絶対主義だ"と公言していて、基本的にはその思考は変わっていない。

未成年飲酒はしてもしなくても気にしないけれど、未成年飲酒アピールは面白くないし、綺麗な風景や色鮮やかな料理だけ投稿しているインスタグラムのアカウントも面白くない。無知で恥をかくのも面白くないし、顔が良いだけのアイドルも面白くない。

鮮やかな写真だけの投稿にも、顔だけがいいアイドルにも、生の意見がないから面白くない。他人が良いと思うであろうことをやり、良いと思われるのは当たり前であり、記憶に残らず流されていく。

80点の恋愛でゴールインするより、100点を目指して他の人を探す方が面白いし、そこに魚がいるかいないかではなく、技術で釣果が決まるエリアトラウトという釣りは面白い。
読者が期待していた通りに物語が進み、大団円で終わるハッピーエンドより、こういう道があったのではないかと考察できるバッドエンドの方が面白い。

80点の恋愛の話は、自分の中でも頻繁に考え込む話題である。私はそれをぬるま湯に使っている状態だと思っている。
ぬるいだけの温泉には魅力がない。

他人と飲んで、尖った考え方を聞くと、ずっとそれを覚えている。そういう尖った考え方をいくつも持ちたいと思う。
異端になろうと思い、ワザと人とズレたことを言ってもすぐ論破される。そういうものではなく、何度も何度も自分の中で思考して、研いで研いで尖らせていくような意見を持ちたい。

ふとした瞬間に、そういえばこんな話があったと思い出して貰えるように生きていきたい。

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