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潑溂たる啓蒙をハンマーで叩け

 潑溂たるミュンヘン症候群への啓蒙を深めるために、私は只管に自我への黙祷を捧げました。いいですか、これは遊戯でもなければ給食でもないのです。歩き疲れた私は椅子と思しき石ころに手を掛けた。逐一伝わる振動に脳髄を刺激され、諦めた僕は再度未来へと目を放つ。ああ、なんたる茫漠な気球であろうか。ハンマーでかち割った破片が鼓膜を突き破る感覚を自覚する。
 言いようもない不安が鼻の辺りから目に抜けて、今すぐに薬が必要だ。貴様はそうやってまた逃げるのか。何処からともなく声が聞こえた俺は、もういいやと嘆く。託つ。走る。耳鳴りが鳴り終わってから、コンサートは始まるらしいという噂を聞いた。山へ登ってみるか。私は飛び跳ねる心を押さえつけながら君と教室に残った。磊々。手提げはいらないです。袋はいらないです、と断り続ける君に存在価値を認める。
 アダプターが僕の言うことを聞かずに反抗を繰り返すので、何度か首を絞めてやったら静かになった。夢を見た。私は老人だった。縁側に出て悠久の時を肌に感じていたとき、傍目に君を見つけた。また君か。どうしてそう何度も私の視界に入るのだ。何度も言いつけたはずだぞ、次はないと。彼女は黙って頷いた。まるでそうしておけば何事も上手く丸く収まることを心得ているような態度で。分かったよ、またこれだろう。私は踵を返してキッチンへと向かった。彼女は口を閉ざしたままついてくる。そんな気配がした。
 どこかでトロンボーンがなっているのだろうか。煩いな。解っているよ。もう時間だろ。私は荒ぶる心を提出した。なにやらもう締切らしい。随分と早い締切だと呟いた声はどうやらその男に届いたらしく、彼は拳を振り上げた。誰だお前は。反復する句読点が過剰であったらしく、上からの命令で引き延ばせとの命を受けた。そうカンペに書いてあったんだと主張する私の子供は、まだ三歳である。依然として首の座らない息子はなにやらものを吐き出した。こんな筈じゃなかったんだ、なんて言葉は誰にでも吐けるよ。校歌がそう言っていたんだ。私は過去を反芻してみる。意義のある思い出らしき思い出が脳裏に浮かばないここ数年間は本当に必要だったのであろうか。
 キク科の植物だけがいやにこちらを覗く。わかったってば。白色の灰色を両手いっぱいに抱えては、親の元へと走り出す。舞い降りた蝶が今日はいつもと違うんだと自慢気な顔をしている。はいはい、君も今日から晴れて成人だねと言われた。そんなことないのに。動く写真は初めて見るのかい。ええ、今まで見たことなかったの。恥ずかしながら。小気味のいい子供の笑い声が纏わりついて顔を歪ませた彼女のその表情に、どこか見覚えがあったことはその後一度も口にしなかった。
 気づけばもうこんな時間だ。さよなら。と彼女は部屋をあとにした。残された私と静寂は手を繋げばいいのか? 歩きだして私も部屋を後にしようとするが、足がまったくもって動かない。脳の命令を聞き入れない私はまるで棒きれのようで、叩いても抓ってもなんの反応も示さなくなってしまった。どうやらドライバーを再起動する必要があるらしい。泣き出してしまいそうだ。この女はドアの向こうに取り付けられた取っ手の隙間から、やはりこちらを覗っていた。いいんですこれで、これで全てが解決しますから。
 夢が覚めた。この話を同僚にしたところ、彼は鼻で笑った。そしてそれからこの話をまるで塵紙みたいにして、彼女は背中を向けて鼻を噛んだ。くしゃみをするんだ。でもそれは幾らか抑圧された表向きのものだけどね。自慢げのその顔に見覚えがあった。夢で見た。夢だ。私は体を仰け反って、二重写しの胸膜から抜け出そうと意図する。ただそれだけであった。
 ところで諸君、こんな話を聞いたことがあるか! 大東亜共栄圏に取り囲まれて身動きの取れなくなった巨人は電話線に絡まって息を引き取ったそうだ。それはそれはご愁傷様です。なんて声があちらこちらから聞こえたが、そのどれにも感情はなかった。感覚もなかった。

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