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テンポラリー

文を書いた、とは言わない。
絵を書いた、とは言う。

あくまで自分としての感覚だが、まとまった文章には常に何かしらの役割が必要とされているような気がする。
例えばそれが小説であったり日記であったりすると人は安心する。どのような態度でその文章に向き合えばいいかがあるていど確定するから。絵と文章の違いはどうも認識にかかる時間にありそうだ。
意図のわからない文章を読むのは苦痛だ、と言うより、文章を読むことそのものに苦痛が伴う。対象と受け手の距離感が他の媒体とは異なり、文章と受け手の距離の中心はかなり文章側にある。だから受け手は文章側に寄り添って認識しなければならず、多少なりとも能動的な姿勢を求められる。
これらはすでに散々議論されつくされてきたことだし、それについてなにか革新的なアイデアを持っているわけでもない、ここで改行する。
書き手についてはどうだろうか。
文章と書き手の距離というものは存在しない。常に文章は書き手の少し後ろを歩いていて、振り返ってやっと文章が現れる、存在しないものとの距離は測れない。では我々はどうやって文章を書いている? 筆の進みにはムラがある。それは個人間でもそうだし、一個人の中でもその一瞬一瞬では進み具合は一定ではない、当たり前だ。
これはあくまでも純然な文でしかなく、なにか意図を持って誰かに伝えるために書かれた文章ではないから、おそらく誰が読んでも苦痛に感じるだろう。ただ私一人を除いて。私はわたしのために文章を書いているのか? 倦怠な体を起こして、わざわざ時間をかけて?
最近はこういったことを考えることが少なくなった。単純に忙しくなったからというのもあるだろう。果たしてそこまで忙しくなっただろうか。世間一般ではそこまでかもしれない、忙殺されるというほどでもない。ただきりきりと心の余裕がなくなっていることも事実だ。人生は終焉に向かっている。終焉に向かう準備をしている。誰かと話した、これまではある程度の目印があって、チェックポイントのように進んでいくだけで済んだ。いくつかの選択肢があったが、数も時間も限られていた僕らにはただ選ぶだけで良かった。もちろん選ぶ努力も多少はしたが、それでもゴールがあった。これから先、いきなり道がひらけた私は今のところなんとなく方向を定めて歩いてはいるが、水平線までは平らなように見える。振り返れば多少の凹凸はあったが、ただそれだけだった。
喉が枯れているのに二次会はカラオケに行った。回ってくるマイクを横流しにして体を揺らして溶け込む。
別に今の環境に不満があるわけではないし、むしろ恵まれているほうと思う。ただ水曜日から熱っぽい体がテンポラリーに私の気分をそうさせるだけだ。
ずいぶんとつまらない文章を書く。ここ最近は文を読みも書きもしていなかったから、自分がどんな文章にこころを踊らせていたかを完全に忘れてしまった。
過去の創作物をひっぱりだしてああだこうだしているフェイズに入りはじめている。たいていこういう時は、何かを作り出したいがゼロから作り出すには体力や胆力が足りないときだ。そういう時は決まって過去の創作物をいじって満足する。過去にその労力を背負わせる。
だからこうして最も労力を使わない創作をしているわけだが、こういう文はまとまりがない、そして一文が短い。文章として読み応えがなく、筋の通っていない文章は目が滑る。ただ面白いことに、文章を書いているとリアルタイムで自分の思考の変化を認識することができる。それは例えば数秒先に自分が書くであろうこの文章の朗読であったり、少し指が止まったときに巡る思考の淀みであったりする。
書き手の責任として断言しておくと、これは日記ではないし、指を慣らすためのウォームアップでもない。この文章はこれ単体で完結していて、ただ純粋に文というパッケージに収まったものでしかない。形跡としてここに思考の流れは存在するが、それはもう昔の話である。

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