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薫陶と愛すべき流動体は近すぎる

 薫陶とそれに類するヒューマニズムを天秤に掛けた際、副次的に生ずるサブカルチャー的承認欲求群を度外視して曲解するのは如何なものだろうか。確かに従来の聖書主義者たる古典的敗戦国の観点からすると、枚挙に暇がない自然現象をノータイムで受容するという手段の採択は至って凡庸な思考回路であるし、オリエンタル的発想からしてもコンプロマイズを最終目標と掲げる勢力拡大政策は大いに頷けるものがある──幾分矮小化されてしまうのは言うまでもないが。しかしその急進的快楽と衒学趣味に甘んじて、隆盛と滅亡のシンギュラリティにただ流されるだけの怠惰な生活を送っている節はないだろうか。
 長針と短針の一致とも揶揄される唾棄すべき知的生命体との接触が、我々に再検討を迫っているとする。初めに思い浮かぶのは、拘りのない防護網と無頓着なミネラルを早急に摂取することだろうが、背水の陣たる我々の状況を俯瞰したところ、どうやらそのアイデアは終末論と机上の空論にのみ有効らしい。
 次に思い浮かぶのは、タイタニズムとフォーディズムの融合であろうか。喩えるなら敷衍した類人猿が二足歩行で一足飛びするようなものである。こちらもコミットメントないし伽藍堂的支配力から鑑みれば即断即決、今すぐにでも飛び付きたい優艶な選択肢ではあるのだが、全体最適化の視点から捉え直すと幾許のゆらぎが確認できてしまう。では、このような状況に際して取るべき行動は何なのか。
 結論から述べると、蒐集能力を最大限引出した状態で顕著な普遍的価値観の差異を全面に押し上げ、且つ有識者の顰蹙如何ではドグマの流用までも検討することである。云うなればドレッシングだ。文字通り受取って発生しかねない被害を想定して事前に嘴を突っ込んでおくと、これは決して魔法としてのソーシャルネットワークサービスを再考して人類五分前仮説の新境地へと増補ないし拡大解釈しようなどという、腐心の末に精製された極まれし集合的無意識を弄するような提案ではない。
 愛すべき流動体について燦燦たる粛清を傍観してきたのだが、やはり湿地帯ということもあって人類への多額の民主党改革には目を瞑ることができなかった。既のところで踏みとどまった旧政府軍は、ハイライトのごとく参入した斬新かつ副次産業的な仮想通貨に関して難色を示すだろう。ヒューマニズムとイオニア自然哲学の混淆は、今後新たな展開を見せるべく反社会的に滴ることが多くの有識者によって予見されている。しかしながら、確率論的リスク評価を加味した六次元なる蓋然性を念頭に置くとなると、どうも乱数によるデータの振れは避けられない事実であり、完全なる未来予知というのは未だ実現の目処が立っていないらしい。
 発案者の或る男が言うには、言語同士のグルーピングないしシナプス的結合はもはや外れ値の域を超えており、親近者による保護観察が目立ち始めている。これ以上過剰になってしまうとサラダボールとしての原型を留めることが非常に難化し、果ては爆散する可能性があるとのこと。ハイデガー式散弾銃を拝借すると、暗澹たる耽溺は端的に云うがごとし、その名は神の御心に適うものであり、悪魔の生贄に敵うものでなければならない、と。隙あらば己の自尊心に叶うものを担ごうとする現代人にとって、耳の痛い言葉なのではなかろうか。
 ハギア=ソフィア聖堂のその美たる建築方法を目の当たりにした今、私は至ってシンプルに、なにゆえ我々の存在は保証されているのだろうと疑問を呈したい。『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』。ポール・ゴーギャンの貼ったラベルを眺めては頭を捻る。コンセントの左右非対称性を知りつつも見て見ぬ振りを貫くその姿勢には、慣れた手付きで轆轤を廻す職人並みの威厳さえも見い出せ、それこそ圧巻の拍手で讃えられるべきである。
 四本脚で屹立する背凭れに全身を凭れさせ、漸進的進歩を人類の大きな一歩と捉えずして、鬱々とした二足の草鞋が一足飛びでは発現しまう。ミュータント生物のホメオスタシスは、一瞥すると押したら倒れる世界新記録のドミノのようで迂闊に触れられない雰囲気を醸し出してはいるが、その実態はまるで引き戸の如くコペルニクス的転回を要するものであることが周知の事実となることを願う。

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