case1 山田家:妻の場合 #ちいさなものがたり

親の決めた結婚でした。
お見合いで一度だけ顔を合わせて、それからひと月も経たないうちに夫婦になりました。
主人のことを何も知らないままスタートした結婚生活でした。

若い頃の主人はいつも仏頂面でね、私の作る料理にも「うまい」とも「まずい」とも言わない。味はどうかと尋ねようにも、声を掛けさせまいとするオーラが漂っていて、会話ができない。好みを探るのが大変でしたよ。
でもこだわりの強い人でしたから、よくよく観察してみると、すべて表情に出ていることがわかったんです。仏頂面ですからね、ほんのちょっとの変化でしたけれど、あ、これは苦手なんだな、こういう味つけが好きなんだな、というのが見えてきた。そういうところから主人の本音を見抜こうと努力したものです。
最近になって主人のお友達とお話をする機会があって初めて知ったのですけれど、主人はひどく奥手で、女性と接するのがとんと駄目だったんですって。
思えば男性のお友達はたくさんいましたけれど、女性の方と並んでいるところは見たことがありませんでした。昔の人間ですし、女こどもを下に見ているものとばかり思っていたのですけれど…。男兄弟だけでしたから、女性の扱いがわからなかったのだそうです。私と一緒に暮らすのなんて、おっかなびっくりだったんでしょうね。そう思ったら、今までのあれもこれも、どれも微笑ましくって。

こどもが生まれるのと同じ頃、主人の事業が軌道に乗ってきて、家を空けることが多くなりました。その頃からですね、小うるさくなったのは。
たまに帰ってきたと思ったら、こどものことから家のことまで、何でも口を出してくる。まあ、たまったものじゃありませんでしたよ。そんなこと言ったってあなた、家のことは私に任せきりじゃない?なんて口ごたえをしようものなら「馬鹿もん!!」と一蹴されましたし。私も子を持つ母になっていましたから、その程度じゃ怯みもしませんでしたけれどね。
すべて自分の思い通りにしたい人なんです。自分で見守ることができればよかったのでしょうけれど、残念ながらそういうわけにはいかなかった。だから気が気じゃなかったんでしょう。口を開けば小言ばかり。やっぱり経営者ですから、あらゆることを把握しておきたい性分なんでしょうね。でも家庭ではそれが叶わなくて、もどかしかったんだと思います。

それでもどうにか時間を作って、年に何度か、家族を温泉旅行に連れていってくれました。
私が温泉好きなんです。新婚旅行の時にぽつりと「やっぱり温泉はいいですね」とつぶやいたのを、主人はずっと覚えていてくれました。行き先を決めるのも、宿や交通の手配も、すべて主人の仕事。必ず名湯のある土地を選んで、私たちをもてなしてくれました。
この日ばかりは小言も…なかったらもっとよかったんでしょうけれど笑、ほら、こどもたちは多感な時期に差し掛かっていましたから。宿が古くさいだの、もっと別のレジャー施設がよかっただの、文句を言うわけです。そうすると主人が「馬鹿もん!!」って、まわりのお客さんも振り返るくらい大きな声で言い放って。そこからはもうお小言の嵐でした。お酒も入っていましたから、余計に饒舌なんですよね。今となっては笑い話ですけれど、なだめるのが本当に大変だったんですから。

死ぬまで現役でいたい、というのが、主人の望みでした。
腕ひとつでいくつもの事業を束ねて成長させてきましたから、我が子のようなものだったのでしょう。夫のことながら、よくぞ立派に育て上げたなあと思います。
そんな我が子の行く末を最後まで見守りたかったんでしょう。ほら、すべて自分の思い通りにしたい人でしたから。
でも息子が後を継いでからというもの、仕事に執着することをやめたように私の目には映りました。それまでも趣味の多い人でしたけれど、会社へ出かけるより、遊びに割く時間のほうが徐々に増えていきました。息子の働きぶりを見て、何か思うところがあったんでしょう。相変わらず口を挟んでばかりでしたけれど、本当に大事なところは、すべて息子に一任したようでした。

楽しい晩年だったと思います。
毎日のようにお友達と出かけて、ゴルフをしたりヨットに乗ったり。家にみなさんを招いて、出前を囲むこともありました。毎度急に連れてくるものですから困りましたけれど、肴を用意しろと言われないのは助かりましたね。自分たちで勝手に頼んでくれましたから。
主人は口下手でしたから、きっと誤解されることも多かったと思うのですけれど…それでも多くの方が慕ってくださって、主人は幸せだったと思います。

最後に付き添っていましたら、主人が珍しく手を差し出してきたんです。そっと手を添えてみたら、ぎゅっと握り返してきまして。もう随分と弱っていたんですよ。だからその力の強さにびっくりしてしまって。
何かぼそぼそっとつぶやいたのですが、うまく聞き取れませんでした。なんて言ったの?とすぐに聞き返したのですけれど、それきり主人が口を開くことはありませんでした。
照れ屋でしたから、最後に伝え置きたいことを口にしてみたんでしょうけれど、正直なところ、聞かれるのが恥ずかしかったんでしょう。まったく主人らしいと思いました。

なんとなく、何を言いたかったのかわかる気がするんです。これでも、長年連れ添った夫婦ですから。
本当のところは、あちらで再会してから問いただしてみないとわかりませんけれどね。
でも、あんまりしつこく聞いたら怒られてしまうかしら。「馬鹿もん!!」って、いつもの大きな声で。


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このものがたりはフィクションです。

なしこ

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