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日記未満 #5

あの頃の荒々しい青さを、私は未練たらしく愛している。

高校一年の春、それまで続けていた陸上競技に区切りがついたので、部活動は適当に選ぼうと考えていた。高校では物理部や数学部あたりに入って勉強を頑張ろうかな、と考えていたが、入学式の後に新入生に向けて設けられた部活動紹介で、統率の取れた身のこなしでGuns N' Rosesを楽しそうに演奏するブラスバンド部に心を奪われた。部活動体験も1つしかいかず、その日そのまま入部届を出した。

高校3年の春まで、本当にあっという間だった。何故授業についていけていたのかわからないほどずっと部室に通っていた。夏のコンクールや年度末の定期演奏会ではオーディションがあり、担当したい楽器が被れば同期とその座を奪い合う。同期は皆附属中学からブラスバンド部に所属していて、高校から音楽を始めた私は少しでも追いつくためにとにかく練習していた。昼休みはずっと顧問に頼んで練習をさせてもらい、自分の合奏が無い時間はずっと個人練に取り組んだ。その時はその方法が当然だと思っていた。しかしおそらくそれが原因で、1人の同期が文化祭前に部活を辞めた。

私はパーカッションパートに所属していて、パートの同期は3人いた。その3人は附属中からの部員で、性格的にも得意楽器的にもバランスが取れていた。高1の時の一つ上の先輩たちは最高学年だったこともあるのか練習熱心で、丁寧に指導してくださった。同期は熱があるというよりかは楽しく参加することが重要な人たちだったので、同期とより先輩といる方が居心地が良かった。

自分達が最高学年になり先輩たちがいなくなっても、私は変わらずずっと練習をしていた。今思えばそれは、同期たちにとってとても暴力的なことだった。私は純粋な気持ちで、よく顧問に曲の解釈を尋ねに行ったりレッスンをお願いしたりしていたけれど、それらは同期に、オーディションに通るために同等以上の練習量や顧問への質問を必要とさせた。そして、希望パートが被っていた1人の女の子は昼休みも練習するようになった。当時は自分がパートの士気を上げたと偉そうに、そして見当違いに思っていたし、他の子たちももっと練習するようになればいいと思っていた。

文化祭で、顧問からドラムをやってみないかと言われた。今までドラムを担当する人は年功序列で決めるのが暗黙の了解で、それを聞いたときなんだそれはと思ったし、だからこそ自分のそれまでの努力が報われたようで嬉しかった。それからはドラムの練習ばかりするようになった。

辞めた子は、その年功序列の決め方であれば本来文化祭でドラムを叩くはずの子だった。パートリーダーから呼び出され、その子が辞めると聞かされたとき、理由は教えられなかったが、そのとき自分のせいだと気づいて泣いた。パートの中でドラムは少し特別な存在で、中学1年の頃から先輩の姿を見続けてきたその子は、自分が高2になったらと順番を待っていたのだと思う。あくまで推測の域を出ないが、そうなんだと思う。知らないうちに彼女たちから何かを奪っていた。私は自分の考えも正しいと思っていたから、どうしていいかわからず謝った。最低な人間だと思う。

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若い頃の思い出には自分のせいで嫌な記憶しかないが、いま第三者的な視点であるとき、その純粋でエネルギッシュな心が鋭利なものにぶつかって散った火花を目の当たりにすると、肺が迫り上がってくるような、ノスタルジアのような感情が湧いてくる。自分以外の全てのものから飛んでくる真っ白な光は、それを濾過する成層圏を持ち得ていなかったあの頃の私にとって、ときにあまりに強烈で痛かった。当時のことを思うとその頃が羨ましいとは絶対に言わないし、寄せ集めて整理して美化するようなこんな文章大嫌いだが、素直に感情を動かせなくなった今が少し寂しい。今も端なく、私は記憶に焼きついた青色の残像を大切にしてしまっている。

2023/2/17

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