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日記未満 #12

宝石職人の私の祖父。

早稲田をぷらついていたら、雪が降った。もう2月も終わるのに、いつまで寒いんじゃ。でも、2月って意外とそんなもんか。3~4月は引退ライブやら新歓ライブやら様々あって、最近はほぼ毎日早稲田か馬場に通ってる。これから就活も盛り上がってくるっていうのに、なかなか大変だ。いろんなことを手抜きせずに頑張るのは、もっと大変だ。でも自分で決めたことだし、頑張らなければな。

2/26は、母方の祖父の誕生日。父方の祖父母は私が生まれた時にはすでに亡くなっていたので、私がおじいちゃんと呼べるのはその人だけだ。私は産まれてすぐに東京に引っ越したけど、生まれたのは母の地元神戸で、祖父母の家も神戸にある。高校2年くらいまでは家族の休みも会いやすく、毎年夏と冬に家族揃って帰省していたけれど、高3では受験があったし、大学に入ってからは家族4人の予定が合うことがほとんどなくなって、それからはそれぞれ時間があるときにバラバラと帰省している。

祖父が亡くなったのは3年ちょっと前。近くで人が死んだのは初めてだった。その1年前くらいから祖父が入院している連絡は受けていて、そのとき私は高校3年でちょうど受験期だった。もともと神戸に帰ることが私は大好きだったので、受験が終わったら会いに行こうと思っていたが、手続きなどに追われて結局第一志望の合格発表が出てから10日後に神戸に着いた。

その日のことはとてもよく覚えている。家にいる祖母に一度会うために寄ったスーパーで慶應の合格発表を見て、受験の全ての行程がそこで終わった。祖母と落ち合ってから病院に向かう途中は、自分の受験のことや、もしかしたらゴールデンウィークにも帰れるかもしれないことを土産話にしようと考えていた。けれど、久しぶりに病室で見た祖父に、とてもそんな話はできなかった。祖父は当時の私にとってグロテスクなほど衰弱していた。意識ははっきりしているものの、横になったままの生活で細くなった足や腕、そして生気の無い目。私は、出来るだけ死から遠い言葉を探して話すことしかできなかった。

祖父は指輪やペンダントなどを作る宝石彫刻の職人だった。祖父母の家の一角はその仕事場となっていて、何度か一緒に作らせてくれたこともあるが、帰省のタイミングではほとんどずっと遊んでもらっていたため、実際に仕事をしているところは見たことはない。しかしその仕事場にはたくさんの賞状が吊るされていて、地域の小学校で講師として呼ばれた時のもの、優秀な成績を協会から表彰された時のもの、中には皇室の方に作品を納めた時のものもあった。彼はまた、街の人気者でもあった。飲み仲間やハイキング仲間、詩吟仲間もいたらしい。夜遅くまで帰ってこなかったり外で寝たりする祖父を、祖母や母は心配しつつ面倒くさがって嫌な顔をしていたが、その仲間たちが葬式で詩を吟じているのを聞いて、本当にいろんな人に愛されている人なんだなと思った。

急死ではなかったから、知らせを受けた時は、ついにか、と緊張しただけだった。身近な死はこれが初めてだったので、悲しさの実感が湧かなかった。その日のうちに必要なものをまとめて新幹線で神戸に戻り、一泊して葬儀に参加した。葬儀には本当にたくさんの人が集まった。まだ成人ですらなかった私は手伝えることなど何もなくただ参列しただけだが、母や母の姉たちはとても忙しそうだった。葬儀が始まって祖父の顔を覗くと、もう会えない、と言うことの意味がわかった。怖いとか悲しいとかではなく、今まで確実にあった人間がそこにもう無い不思議さで胸が苦しかった。

火葬場の煙突から天に昇っていく祖父を見たとき、がんばれ、と思った。祖父はまだまだ死にたくなかったと思うし、私もまだ祖父に生きていてほしかった。祖父はとてもエネルギッシュで、病床に臥すまではずっと生きることに夢中な人だった。私はそれがとても好きだった。死は誰しもがいずれ必ず迎えるものだけど、たぶん私はずっと、他人の死を上手く受け入れることはできないと思う。だけどせめて、私が生きる限りその人のことを想い、思い出すことはしていたい。祖父はもういなくなったが、私の中にはずっと彼という人間とその人生の一部が存在している。春になったらまた、酒を持って会いに行こうと思う。

2023/2/25

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