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日記未満 #3

発せられる言葉と、綴られる言葉。

もともとあまりテレビを見ずに育ってきたせいか、漫画や小説ばかりが好きで、アニメやドラマなどを見ることがない。それは単に見るタイミングを失い続けているというわけではなく、それらを意図的に避け続けているのである(と思う)。

漫画からアニメ化された作品、原作を元に映画化された作品、最近は漫画を実写映画化する作品も増えた。業界の事情はあまりわからないが、なぜそんな事をするのだろうと思う。いや、ある程度の理由はわかるが、それはどれだけ純粋な意味で作品や作者のためであるのだろう。

たぶんそれは私がそういった映像文化を受け入れてこなかったことや、そもそもの性格が捻くれていることによる疑問なのだろうし、おそらく作者やファンの方々はきっと純粋に、作品に時間的な動きや声を与えられる事や、映画・ドラマに至ってはある種二次創作的な魅力を楽しんでいるのではないかと思う。

そもそもそういったアニメやドラマ、映画を見なくなったのは、音にして発せられた言葉からは綴られた言葉からほど、煌めきやエネルギー、感情、あるいはその思慮深さを、感じ取ることができなかったからだと思う。

歌と洋画は、その点の苦手を感じず、むしろ好きだ。

洋画は多分、英語とその言語が持つ文化に馴染みがない分、コンテクストの違いに気づかないのだろう。そして何より、洋画の下(もと)にある、大きな礎となる文化が好きだ。時には、日本特有の、元の文化がなく輸入したところから発足したカルチャー(ヒップホップや邦画など)も心地よいけれど、今に至るまでの歴史が織られている洋画は、見ていて違和感を感じず、その言葉遣いが好きだったりする。

歌に関しては、なぜか発された言葉に違和感を感じず、むしろ輝きや感情をより一層強く携えたまま伝わる。何故かは分からない。分からなくていいけど、その力強さは本当に大きなエネルギーを私たちに与え、時にそれは生きる力にさえなり得る。本当に大好きだし、聴くことも取り組むことも止めることはないだろう。

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なんとなくずっとどこかで意識してしまっていることなのだが、私は他人から貰った大事な言葉は、誰にも教えない。教えないというよりかは、口に出さない。何故か知らないけど私の身体においては、その言葉をひとたび音をもたせて発してしまったら、それが持つ御守りのような効力は失われ、たちまち頭から消えていってしまう。そういった言葉の効力はそもそも無期限ではないものの、できる限り長持ちさせたいという卑しい性格だから、できるだけ、大切にしたい言葉は発さずに心に留めたり、記しておくことが多い。

高校2年の冬、ブラスバンド部で全国大会に行った。それはいわゆるクラシックの大会ではなく、真島俊夫氏が生前発足させたシンフォニックジャズ&ポップスコンテストというものだったが、そこで初出場金賞準グランプリという賞を獲得した。高校では入学してから初めて音楽に触れた吹奏楽に没頭しており、それをずっと見ていてくれた顧問が、ドラムをやらないかと選んでくれたのもあって、準グランプリという結果が一入に嬉しかった。

その大会が終わった日、部の総監督が私を、本当によく頑張ってくれたと一対一で労ってくれた。それまで嬉しいことがあったら誰かに報告するような可愛らしい人間だったが、その言葉は誰に言うのもやめようと思った。大切にしたかったし、忘れたくなかった。実際今までで一番自分を評価してくれた他者の言葉として、今でも忘れず大切に持ち続けている。(何年も経ってそれを超える出来事がないのも如何かとは思うけれど……)

2023/2/15

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