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虚実の境が曖昧になりながら歩くことになるーさいたま国際芸術祭2023旧市民会館おおみやに行った感想

最終日前日の土曜日に見てきた。

どうやってあそこに置くのだろうか
準備中かと思うほど暗いし、散らかってる

まず会場内で、段ボールや使い古された清掃用具が置き去りにされていることに気が付く。あれ、ここって一般客が歩いていい場所なんだろうか、ときょろきょろ辺りを見渡してしまった。晴れの日の昼間にもかかわらず、全体的に暗く、ガラス窓は割れ、閉館した古い市民会館のいかめしさも相まって廃墟感すら感じる。
いたるところが黒い枠と透明板で仕切られており、それが空間内で明らかに異質なものなので、ここはちゃんと芸術祭のルートなんだなと思わせてくれていた。
でも、この枠と透明板が曲者だった。同じフロアですぐそこに見えているのに、なかなか向こうにたどり着けないのだ。向こうには、作品があるわけでもなく、自分と同じようなお客さん(に見える)人がうろうろしているので、行けるはずなのに。おかしい。
とりあえず、このフロアは諦めた。後回ししようと進んだのだが、次のフロアでも、同様に、同じ会議室にいる人と透明板で区切られていて、行き来するための扉がない。おかしい。まるで、走っても走っても進まない夢の中にいるみたいな感覚になってきた。
・・・あれ、清掃員さん、あそこでサボっているの見えているけど?靴下落ちているけど?異様に派手なファッションの人がいるけど普通のお客さん?線香の香り?さっきまで無かったはずの工事現場が出現している?レースのカーテン日に焼けすぎじゃない?ラストコンサート※で「しまむら」「休み」って歌っている?さいたまだからってそんなことある?・・・・・

「展示物を見る」という心づもりで来たのに、展示物然としたもの以外の部分に、奇妙さとリアルさが細かく混在しているため、すべてが怪しく見えてくる。気が付いたら注意力のメーターを徐々に上げらて、自分のキャパを超えていたのか、虚実の認知が曖昧になっていたと思う。

だいぶ歩いたあとに伊藤比呂美さんという詩人の朗読をヘッドフォンで聞くためにベンチに座ったら、急に疲れを感じた。朗読内容はランダムで毎日違うらしい。幸いほかのヘッドフォンも空いていて待っている人もいなかったので、ゆっくり伊藤さんの朗読を聞きならが窓の外を眺めた。ここでも不自然に派手なタオルが干してある。

路地を挟んだ向むこうにヤクルトの販売所があって、ヤクルトレディの募集文字に目がいった瞬間に、びっくりした。ヘッドフォンから伊藤さんがその看板を読み上げる声が聞こえた。まるで今、自分がどこからか見られていて、リアルタイムで伊藤さんが読み上げてくださっているのではないかと錯覚してしまうタイミングだった。当然そんなはずはない。それくらい感覚がバグってしまっていたということ。なにごとにも「意味」を求めすぎて、本来は因果関係のない物にまでも、自分の中の勝手な思い込みで意味づけしてしまう。
今思うと、市民会館という生活と地続きな場所に、黒い枠と透明板で異世界のレイヤーをかけられた場所を歩き続けて、途中から自分もこのフレーム越しに、あちら側の人からアートの一部にとして見られるのではないか、さらには構造上こちらが覗き見しているのに無視されているときは、こちらが「虚」として扱われているのではないか、などの感覚にもなっていた。いや、異世界のレイヤーというよりは、実世界で当たり前だと思い込んでいる認識を少しずつ崩される感覚で、そういう意味では少し、スリルもあったかもしれない。
また、”普段隠されがちだけど悪いことでもない様々なもの”へフィーチャーに触れて「時間による経年変化とか、生活者自身とか、そういうのもいいものだよね。無理に格式張る必要はないよね」みたいな感覚になった。

体力不足によりメイン会場以外には行けなかったことと、缶のドリンクが売り切れで買えなかったことが心残りです。
そう言えば今日、スケーパー研究所のYoutubeチャンネルに気が付いた。登録者数8、2つある動画はどちらも再生数が6日で20台。会場の中にあるスケーパー研究所は、どこよりも混雑していたのに比べてとても少ないのが面白い。もしかして、このチャンネルも「虚」なんでしょうか。
メイン会場のディレクションをした目[mé]が今月の美術手帖で特集されているとのことなので、これから買いに行きます。


旧市民会館おおみや自体がかっこいいと思った①
旧市民会館おおみや自体がかっこいいと思った②
旧市民会館おおみや自体がかっこいいと思った③


※ラスト・コンサートはミハイル・カリキスの映像作品。


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