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おうたのじかん回顧録 (昼の部)

 いま、思い出している。
 2019年の暮れの事だ。私はGEMS COMPANYというアイドルグループのアコースティックライブ『おうたのじかん』を見に行った記憶がある。水科葵さん、長谷みことさん、音羽雫さんの御三方の歌声は素晴らしく、非常に強く心を動かされた事を今でもよく覚えている。まるで夢の様な時間であったが、twitterを遡れば色々な人の感想やセットリストが見つかるあたり、現実の事だったのだろう。

 昼の部2曲目だろうか、aikoさんの『カブトムシ』を聴いた時点で涙を流してしまった。ライブ序盤にも関わらずだ。この曲は過去に水科葵さんも音羽雫さんも歌ってみた動画をアップロードしている。

 水科葵さんは感情を取り戻す前である事、音羽雫さんはアカペラで歌っている事から、どちらも初期の頃の動画であることが伺えるだろう。
 私が音羽雫さんに出会ったのは2019年7月頃であるが、新しい配信ではなく古い動画から順々に視聴していた。今にして思えば放送中のアニメを1話から追いかける感覚だったのかもしれない。当時の印象は、歌が上手なお姉さんが部屋で配信をしているというものであった。
 それがアコースティックライブではどうだろうか。プロの演奏をバックに観客の前で堂々と歌っている。その姿は立派なシンガーに他ならない。彼女達が歌手としての階段を確実に上っていることが実感できたことが何よりも嬉しくて唯々涙を流していたのかもしれない。


 私は子供のころからひとしきり泣いた後には決まって眠くなるきらいがあった。激しい感情の変化で脳が疲労するのであろう。7曲目の『Rain Dancer』を聴く頃には涙も枯れ果て、水科葵さんの歌声の心地よさに身を任せていた。これも音楽の贅沢な楽しみ方の一つだ。
 しかし、平穏を取り戻しつつあった心に大きな衝撃を与えた歌がある。音羽雫さんの歌う『人生は夢だらけ』だ。これはじぇむかんTV#15でも紹介されており、ご存知の方も多いだろう。

(1:18:35 から)

 とてつもなく強い感情が込められているのが伝わってきたが、それがどのような感情なのかは理解できなかった。ふと頭に浮かぶ言葉を並べるが「悲哀」「渇望」「怒り」「叫び」等々全く纏まりがない。あの時感じた事を少しづつ紐解いてみたい。
 無論、歌声にどのような気持ちを込めているかは本人にしか解らない。これから書き連ねる事は灰汁までも私がどう感じたかであり、彼女の人間性や本質を推察しようという狙いは毛頭ないという事を先に断っておく。
 歌詞の一説に以下の内容がある。

こんな時代じゃあ手間暇掛けようが掛けなかろうが終いには一緒くた

現代は大量生産大量消費の時代で、それはコンテンツにおいても同様だと感じている。何かが巷で話題になったと思えば、すぐに忘れられていく。そして真に良い物が話題になるかと言えばそうではない。あるコンテンツの一部が著名人の目に”偶然”止まって有名になる(所謂バズる)というのは、まさしく運によるものであろう。

この世にあって欲しいものがあるよ 大きくて勇ましくて動かない永遠

 作詞をした椎名林檎さんは、そんな時代にあって永遠に残るものを創りたいと、もしくはそのような存在になりたいと思ったのだろうか。

私の人生 誰のものでもない 奪われるものか 
私は自由 この人生は夢だらけ

 音羽雫さんの歌唱で痺れたのは何と言ってもこの最後のパートだ。歌唱力が素晴らしいだとか、声の伸びがいいだとかは今更言うまでもない。
  私は彼女の歌声から、大量生産大量消費のいい加減な世界へのやるせなさ、自分はここにいるぞという叫び、人々の心に残りたいという渇望、様々なものを感じたのかもしれない。そしてそれら全てをひっくるめて”人生”であり、そして”夢ばかり”だと。凡人の私には真似できない生き方だ。
 言い換えれば、あの歌声から彼女の覚悟を見出したのだろう。震えてしまうのも納得だ。願わくは、彼女のこの先の夢を人生を眺め続けたいと切に思う。

 

  話は代わるが、私の思う長谷みことさんのイメージと言えば、突拍子もない事を思いつく少女というもので、過去の歌ってみた動画で歌が上手い事は順々承知の上ではあったが、音羽雫さんや水科葵さんに比べると歌メインという印象は強くなかった。
 しかしながら彼女が歌う『帝国少女』を聴いたとき、それまでの浅ましい自分の考えを恥じた。それを歌う彼女は凛とした美しさと強さを兼ね備えており、その雰囲気は普通の少女のソレではなかった。MCで見せていた緊張の色はどこにも感じられなかった。正確な言葉を見つけるのは難しいが、彼女の"深さ"を改めて痛感させられた。彼女はこの先きっと何者にもなれるのかもしれない。次にこの様な機会があれば、もっと多くの彼女の歌唱を聴いてみたい。


 今こうして文章を書くにあたって『おうたのじかん』で聴いた色々な曲が頭の中で蘇ってくる。残念ながら記憶は動画のように完璧な状態で保存されている訳ではない。故にもう一度聴きたいと願ってしまうが、それは不可能だ。仮に再び『おうたのじかん』が開催されたとしても、きっとセトリも伴奏も歌い方も全て違うだろう。インターネットで聴きたい音楽を好きな時に聴けるこの時代に、聴きたくても聴けない苦しみを味わえるのは稀有だ。これは満たされないが故に、一生消えない感情だろう。

 いつの日か再び『おうたのじかん』が開催される事を希う。

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