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雰囲気のお話

People.1

「…帰ろうか…」
僕とパートナーは、夏の陽気にあてられて海に来たことを早速後悔していた。
勿論、ふたりとも長袖長ズボン、サングラスに帽子、日焼け止めは全身に塗りたくった状態で来たのだけど、それでも眼の前に広がるぱりぴぱりぴな光景を見て即回れ右したくなったのを耐えている。
「せっかくですから、波打ち際だけ歩きませんか」
パートナーの提案に渋々うなずき、人が比較的少ない波打ち際を歩いた。
遠くに賑やかな人の声を聞きながら打ち寄せる波を避けて歩いていると、意外と気持ちがいいですよ。
と波をばしゃばしゃと軽く蹴りながら前をゆくパートナーが笑う。
勇気を出し、足に波が浸った時、綺麗な名前のあの人を思い出した。
こんな夏の日みたいに明るくて、足に当たった波のようにじゅんわり染みていくような、笑みの。
「…来て、よかった…かも…」

People.2

SNSで、真っ赤なバラの花束(100本あるらしい)を包む花屋さんの動画を流し見ていた。音声も流さず見ていたけれど、プロポーズ用だったんだろうか。
見事なものだった。
花屋さんの手さばきなんかも勿論だが、まあ、花束の存在感が。
1本だけでも存在感がある花なのだから、それがあんな束になったら当たり前か…。
そういえば、と。そんな1本のバラのように僕の中で存在感のある人のことを思い出す。
そう、あの人もバラの本数が増えるように強烈な印象を残すことがあるのだ。
100本の赤いバラの花束に興味がないわけではないけれど、僕にとってはあの人への興味のほうがずっと強い。

People.3

仕事が終わり、お客様をお見送りして一度ホテルの部屋に戻った。
上品な間接照明でほんのりと暗い部屋で自分のスマートフォンを開くと、明るい光に目がちかちかとして瞬きをした。
SNSの画面を開き、帰ろうかな…と投稿しようとして、ある人を思い浮かべている。かえ、まで打ってアプリを閉じ、先程まで床を共にしていたベッドの片割れに身を沈める。
いつもより疲れているように感じた。
髪を結ったベルベットのリボンを解き、ボタンを2つ緩めると目を閉じる。
今夜は、雨じゃないからね。
微睡みの中で、お客様の頭に藁半紙の紙袋を被せる夢を見た。
きっと愉快なお客様に違いない。そしてその傍らには、温かい珈琲が湯気をたてているのだ。

People.4

茹だるような暑さがほんの少し和らいで、いつの間にか蝉の声も聞こえなくなる頃。僕はいつも下を向いて歩いている。
どうしても出なければならず、憂鬱な気分で外に出た。
ましになったとはいえ、まだ残暑が残る昼間はずっと苦手だ。
ああ、雷鳴。
仕方なくカフェに入り、激しい雨が去るのを待つ。窓際、ガラスに打ち付ける雨粒だけを見ていた。
雨がやむと、エスプレッソ濃いめのカフェラテを飲み干し、カフェを後にする。
ふいに、強い風が吹いた。
思わず腕で顔を覆う、腕の隙間から、明るい光が目を射抜き、反射で上を見上げた。分厚い雨雲から覗いた空は高く、季節はとっくに秋を告げているような気がして。僕はあの人を思い出した。

People.5

モネの絵の花を見てみたくなった朝。
電車に揺られ、いつぞや知ったその絵そっくりの風景の場所へ向かった。
その場所は、人こそ多いもののだいたい写真で見た通りで、そして絵画の風景に確かに似ていた。
目当ての花は、透き通った水色の池、色とりどりの鯉たちが泳ぐその池に点々と咲いていた。
朝の柔らかな日を受け、凛と真っ直ぐ天に向けて花びらを広げている。
僕はその場に立ち止まって花と向き合った。その瞬間、耳に周りの喧騒はなく
しんと静かな僕たちだけの空間があったようにさえ思えた。
…どんなに澄んだ水より、優雅な鯉たちより、モネがその花の名を絵画のタイトルにした意味がほんの少しだけわかった気が、する。
僕は思い出す。あの花のように笑う人を。いつだって綺麗に笑う人を。

People.6

初夏。日がゆっくりと落ちて少し涼しい風が吹き始める夕暮れに活動を始めるのは僕だけではないらしい。
朝ご飯にしようと、パン屋で取り置きしておいてもらったパンを受け取って、ご褒美ご褒美、とクロワッサンを食みながら公園のベンチで一休みしているときだった。いくらぼうっとしている僕でも、隣からじぃっと見つめられるとゆっくりと目を合わさずにはいられなかった。
「…こん、ばんは…」
スラッとした猫で、野良のようには見えない。猫が見つめているのは間違いなく僕の手にあるクロワッサンで、僕の挨拶など聞こえていないんだろう。
…猫に、パンを与えていいのかな…。
マイペースを具現化したような動物だよなあ、ほんと。そんなふうに思いながら、僕はこの猫があの人のように見えているのだった。

People.7

寒さが深まってきた晩秋。
秋の日はつるべ落としとはよく言ったもので、橋から池の鴨を見ていたらあっという間に太陽が落ちかけだ。
早く帰らないと。
帰路、すれ違うサラリーマンたちは薄めのトレンチコートやチェスターコートに、マフラーを持っている人もいる。
みなさん、お疲れ様です。僕はすれ違うたび心の中でそう唱えるのだ。
ふと、ビルの隙間からオレンジの夕日が差し込んだ。ガラス張りのビルに一瞬だけ反射した強い光に目がくらんで立ち止まった僕の脳裏に、同じような写真を見たことが鮮烈に過った。それぐらい、あの写真は綺麗だったんだ。
あの人は無事に家に帰れるだろうか。誰かあの人に、温かい珈琲を淹れてくれる人がいたらいいのに。

People.8

冬の夜、少し仕事まで時間があったので大通り沿いのカフェに入り、窓際のカウンター席を陣取った。
この時期の街はイルミネーションに溢れていて、通りをゆく人々は皆おしゃれをして歩いている。
僕はこういうところでそんな人々をのんびり眺めるのが好きだ。
ふんわり広がった白いロングコートが揺れて、ピカピカの革靴の足取りは嬉しそうに軽くて。
暖かそうなファーのフード、きっといい毛糸のマフラー。
繋いだ手、コートのポケットに入った手、組まれた腕。
そんな幸せそうな人々を見ながら、皆どうか幸せであれと密かに祈る。
それはもれなく、あの人もその恋人さんも含めて。

People.9

まだ薄ぼんやりと暗い冬の朝に、鰹節でとった出汁を鍋に注ぎ入れる。
今日の具はサイコロみたいに切った絹豆腐と、わかめのシンプルなやつにしようかな…。白味噌多めにしよう。
取り分けておいた出汁でじゅんわりだし巻き卵を焼く。
出汁を取ったあとの鰹節はおかかおにぎりの具にして。小鉢に白菜の柚子浅漬。
料理は意外と頭を使う。ぼんやりしていた頭が起きてくる。
シンプルながら身体を内側から温めてくれる朝食を作り終わって、少し遅出のパートナーを起こしに行く。
声を掛けると布団の中でもぞもぞ動くその姿が、ふと誰かさんと重なった。
ちょっぴり笑ってしまう。
とはいえパートナーの寝起きのほうがずっとよく、僕たちは二人でできた朝食を食べるのだ。1日をはじめよう。人間として。

People.10

字というものは、その人の性格を表すとはよく言うが、僕はこの人の字を見てああ確かに。と思うのだった。
その紙に書かれた墨の部分に手を伸ばすときっと指先が凛としたものに触れたような気がするに違いない。そして、半紙の柔らかさが追ってくる。
書道家という職業の人には何人か会ったことがあるが、僕にとって一番身近で、一番馴染む字は、僕を安心させる。
この人の字をもっと見てみたいと思う。
正月に、書き初めをしてみた。
これは…。まあ。小学生のほうがうまいかもしれない。
僕もどうせ習うのなら、あの人に教わろうと、そんな風に思った。

People.11

仕事部屋の整頓をしていると、美しい組紐が出てきた。
…どこかで頂いたものだったはず。そして二本で一組だったような…。
おや、もう1本の片割れは何処にいったのだろう。
「あ…。そっか…」
思い出した。
「…これを、結びましょう…。きっと、似合います、から…」
とある撮影の現場だった。髪につける小物に僕は大変苦戦していて、その時に見つけたのがこの組紐だったのだ。
優しいあの人は申し訳ないと遠慮した。
それでもあの時の僕はあの人の髪に結びたかったのだ。もう1本の片割れを置いてまでも。結んだ時のあの人も、勿論撮った写真もとてもしっくりきていて、僕はそのままその組紐を持って帰ってもらったのだった。
「…君、今度、届けてあげるよ…」
ごめんね、早く見つけてあげればよかった。片割れのままでは、寂しいでしょうから。


People.12

すみません、と慌てたように声をかけられた。
緩い坂道で、その人がどうして僕に声をかけたかの理由はすぐに分かる。
鮮やかな赤のりんごがリズミカルに坂道を転がって来るのが見えたのだ。
「…あっ、…よ、よっ…と、」
一つだったから僕の体力でも追いついた。拾い上げたそのりんごは、坂道の凸凹で少し傷がついてしまっている。
「…ごめんなさい、傷が…」
追いついてきたのは優しそうな紳士で、いいんですよ、助かりました。と何度も頭を下げた。
そして、アップルパイにでもしようかなぁ、紳士は笑う。申し訳無さそうに少し眉を下げながら。でもこのりんごが無事であったことに安堵している。
「…素敵だと、思います…」
傷ついた果物で作ったって、美味しいに違いないと思った。僕もどこかこの紳士と重なる、あの人と食べれたなら、きっと嬉しいだろう。

People.13

水族館に来ていた。
地域では有名な水族館なのだが、冬、平日の夕方ともなれば貸切状態になるのだ。
ゆったりと泳ぐ大きな魚たちを、ベンチに座ってただ眺める。
それは癒やしの時間だった。
アジ。刺し身かな…。イワシは、梅煮。クエだ。鍋だよな…。ブリ。ぶりしゃぶ…。
…お腹の空く時間でもある。
この水族館に、いつか連れてきたい人がいる。
メルヘンで可愛らしい見た目なのに、どこかではとても現実的なあの人。
二人で水族館にきて、寿司を食べて帰る。その所業をにっこり笑っていいね!っていってくれそうなあの人。
…今度、声をかけてみよう。

People.14

これは僕の後輩さんのことになるのだが、どうしてもあの人と重なってしまう人がいる。年上の後輩さんだ。
恐らく、たぶん僕たちが所属するクラブでの稼ぎ頭の一人である。
物腰が柔らかく加えて人懐っこく、しかし引き際は弁えあっさりとしている。
優しい笑顔、ややむっちりとした素敵な身体。
事務所でうとうととしている時、つい、つい事故で彼をあの人の名で呼んでしまったことがあり、他の後輩から詰め寄られるという事件があった。
それくらい重なるのだ。
彼とあの人はよく似ているから大丈夫だよ。そういうとみんな納得した。
ああ、じゃあ取られることはないね、と。

People.15

僕はいつだって目でその姿を追っている。
玄関ドアが閉まりかけ、後ろ姿に靡く髪のその1本まで、目に焼き付けている。
僕があの人といる時間は、僕が仕事仲間と過ごす時間に比べれば短い。そしてあの人もまた、僕と過ごす時間のほうが短いのだ。
だからこそ、例え眠っている横に寄り添って体温を分け合っているだけで言葉すら交わさないようなそんな時間ですらとても優しく感じるんだろう。
僕は目を覚ます。
あの人がパンをトーストしている。お気に入りのパン屋の食パンの香りだ。
今日の付け合せはなんだろう、いちごのジャムだろうか、金色にきらきら光るはちみつだろうか。
僕が朝を好きになったのは、間違いなくこの人のおかげだ。

People.16

僕は、とある病にかかっている…。
なんて言ったら深刻そうだけど、どうってことはない。
クセのようなものだと思う。
出張で西のほうに出向いてさる有名な橋の上からかの有名な看板を見た時にそれは起こる。
「…今日も、元気そうだね…」
とある友人に、どうしても。そんなに似ているわけでもないのに。見えてしまう。
その人はマラソンランナーの格好をしていない。
ポーズは同じでも、なぜか褌なのだ。しかもなんか真っ赤のやつ。
なにかきっかけがあった訳じゃなかったと思うのだけど…。
その看板が皆を元気づけるように、彼は僕のことを元気づけてくれる存在なのだと思う。

People.17

真冬。久しぶりの雪で交通網が麻痺しててんやわんや、みたいなニュースを流し見ながらチャイを丁寧に淹れた。
じっくりと茶葉とシナモン、カルダモン、グローブを煮出して、たっぷりの牛乳を注ぐ。作りながら、チャイは、暑い国インドの飲み物なのに、どうしてこんなにホッとするのだろうと、のんびり考えた。
そうか、砂漠の夜は冷えるんだった。砂漠に雪は…さすがに降らないんだろうな。
…あっ。
事故で、ブラックペッパーのホールを入れてしまった。…まあ、これはこれでありかもしれない。
…オーロラの見える砂漠はあるだろうか。ある人の笑顔が浮かぶ。
そんなところで、このチャイを飲めたらいいだろうな。…ふたりともが、寒さに耐えられるかというと、別の話になりそうだけど。

People.18

「あれ?買ってきたの、3つなんですか?」
パートナーに言われて気付いた。
有名なスコーンの店がポップアップショップを出しているのを見つけて、これはお土産にいいな、と思って買ったものだった。
結構大ぶりのようだし、2つくらいでいいなと思っていたはずだったのに。
ぼうっとしていたのだろうか。美味しそうだな、と思ったのだろうか。…全てプレーンなのだけど。
「…紅茶、淹れようか…」
この時、パートナーはすでに見抜いていたらしい。僕は誰かを思い出すと、家に持って帰るだけなのにその人の分まで買って帰ってしまうことがあるのだ。
「で、誰のこと考えてたんですか?」
その言葉で、クロテッドクリームとラズベリージャムをたっぷりつけたスコーンを頬張った僕はやっと誰のことを考えていたか思い出した。

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#いいねした人を名前伏せて雰囲気だけで語るbyなお

に、いいね、してくれたみんな…ありがとう…。
誰が、誰か、たぶん…その人には、わかるように…書いたと、思うのだけど…。
わからなかったら、教えるから…聞いて、ね…。