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泉房穂氏を徹底的に批判する


2/13、プレジデントオンラインに掲載された元明石市長、泉房穂氏の記事が話題である。

その主張の乱暴さに驚愕して思わず5回通読してしまった。読めば読むほどこういった人物が支持を集める民主主義の怖い一面を再認識させられた。
一体氏の主張のどの部分が怖いのか、順を追って僕の見解を示していきたい。

100年に1度のゲリラ豪雨に備えること無駄だという価値観


まず泉氏は記事のなかで下水道工事に関する予算を600億円から150億円に削減したことを自慢げに語っている。明石市のことはよく知らないからどの程度の予算規模が適正なのかどうかについては分からないが、記事のなかで明らかに100年に1度のゲリラ豪雨に備えることはお金の無駄である、という価値観が垣間見えている。なお、大事なことだからくどいようだけど説明しておくと、この記事は明石市職員の内部告発ではなく、あくまで泉房穂氏本人が語った内容である。

プレジデントオンライン記事の該当箇所

ちなみに東北大学の遠田晋次教授によれば、先日能登地方で発生したマグニチュード7.6規模の地震は能登地域で3000年~4000年の間隔で発生するものだという。泉氏の価値観だとそんな頻度でしか来ないものに対して備えても意味ないから震災対策予算はいらない、という話になりそうである。
100年に1度というのは頻度の話であって、それが来るのは遠い未来の話だという意味ではない。災害はいつ起こるか分からずそれが1年後に来る確率も10年後に来る確率も一定である。その意味で100年に1度の災害というのは住人にとって比較的身近な脅威と考えて間違いないものと思われる。そこに対する備えを100年に1度だからという理由で軽視するというのは自治体の首長としては信じがたいレベルの低い防災意識であると言わざるを得ない。
ちなみにこれとまったく同じ論法で防災を軽視する発言は旧民主党政権の時にも観察された。事業仕分けで官僚をつるし上げる様子がテレビで華々しく報じられていた時代には、200年に1度の水害に備えるスーパー堤防なんてスーパー無駄遣いだ、というような極めて軽薄な発言がマスメディアで好意的に報じられたりもしていたのである。
ちなみに事業仕分けによって廃止になったスーパー堤防事業の二子玉川地区は、2019年の台風19号による多摩川の氾濫により浸水している。200年に1度の水災は意外と身近であるということを示す、これほど分かりやすい事例はない。

完全に人を馬鹿にした言動


記事を読み進めていくと次に驚愕の事実が発覚する。なんと市役所のエレベーター部品の保証期間が過ぎたから交換したいという具申に対して「止まったら修理すればいいから、今はそのままで」と返したというのである。もうこの時点で呆れて物も言いたくない気持ちだが、一生懸命職員さんは説得を続けたという。その結果返ってきた言葉は「もし市民が怒ったら、私がおんぶして階段を上がるから大丈夫や!」という言葉だったという。

大事なことだから2回言うがこれは明石市職員の内部告発ではなく、泉氏本人の発言である。完全な論点ずらし、どれほど人を馬鹿にしたらこんな返答が出来るのだろうか。職員さんがどんな気持ちで部品交換の必要性を訴えているのか、そこを慮る最低限の想像力すらないらしい。
それにしても当の職員さん、なかなか引かなかったというのだからその仏のような人間性に心底惚れてしまう。僕のような出来ていない人間なら泉氏のような人が上司ならそんなにも誠実な仕事はしない。適当なやっつけ稟議を上げといて却下されたら「はいは~い、わっかりました〜」で終わりである。問題点を把握して解決策を具申しました、結果却下されました、という外形的事実だけあればあとは市長の責任だからそれで満足である。後のことなど知ったこっちゃない。市長が責任を取ればよい、という態度に徹して仕事をすることと思う。

消防車2000万円が高い、と感じる驚愕の金銭感覚


驚愕の記事はさらにエスカレートしていく。

「消防車って2000万円"も"するの?」という驚愕発言である。大事なことだから3回言うがこれは明石市職員の内部告発ではなく、泉氏本人の言葉である。心底、明石市の職員さんに同情する。ハイエース買ってきてDIYでタンクとホースとポンプとハシゴを詰め込んだだけでも2000万円ぐらいはかかりそうな気がする。市民の命を守るための消防車に対して2000万円ぽっちの投資も惜しいならいっそ、火事なんか時が経てばいずれ消えるんだから消防車なんか要らない、消防予算をゼロにしますっ!で良いのではないか。あるいは人間いずれ死ぬのだから、命を守るための予算は不要!なんてのでもよいかもしれない。

なぜ泉房穂氏は人気があるのか


泉房穂氏の人気の構造は2009年に民主党が政権を取った時に酷似している。官僚・役人を悪、あるいは無能と見立て自分たちがそれを倒す正義の側に立つわけである。実際に官僚が悪であり無能であるかどうかは人気の有無にはあまり関係がない。そういう物語があれば良いのである。
政治の力によって行政官が懲らしめられる様子がメディアを通じて流れることで、正義の政治家に人気が集まるのである。事実、意図的かどうかは知らないが民主党政権時代の事業仕分けは体育館にテレビカメラを集めてショーアップされてお届けされた。
泉房穂氏の言動も同じ構造である。氏の手法はやってることはただ一つ、メディアを通じて役人を叩き予算を削り給付に回す、それだけである。
古今東西、人々は行政官に対して本源的な不満を持っている。だから役人叩きは受ける。その上お金まで配るのだから人気が出ないわけがない。ポピュリズムをやりたければ役人を叩いてお金を配る、これがテッパンの手法なのである。

役人叩きは人気獲得には向いているが統治には絶望的に向いていない


さて問題は、人気を得たからといって統治が上手くいくわけではないということである。組織とは人であるから、一般論として「うちの職員はこんなにアホでんねん」とトップが嬉しそうに言い回るような組織がうまく機能するわけがない。またトップが内部では職員に高圧的で人をバカにした態度を取っているような組織が正常に機能するわけがない。普通そういう組織では様々な形でボイコットが起こる。例えば報告は上がらず、問題は隠蔽され、事なかれ主義が蔓延り、指示待ちになる。
泉氏は記事の中で役人は事なかれ主義だと書いているが、自分が蒔いた種であるかどうかを一回でも考えてみたことがあるのだろうか。考えたことすらなさそうにすら見えるのは気のせいだろうか。

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