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豆腐に関する雑考

僕は豆腐が好きである。豆腐が好きな人などこの世に山ほどいると思うが並の好き度ではない。
例えば居酒屋では冷奴と厚揚げを同時に頼むレベルである。
例えば何か事情があってある日突然魚や肉の価格が100倍になったとしたら、寂しい気持ちはありながらも大豆があれば満足だからヴィーガンとしての人生を受け入れるだろう。
例えば独裁者が国民に肉食を禁じたとしたら、もちろん食の選択肢という幸福追求権を奪う政府を許さないとは思うのだが、もし悪そうな独裁者から「君はヴィーガンの素質があるようだな。どうだい、地下で肉を屠る肉食民のなかに潜入し密告すれば、京都の老舗の豆腐店、永久食べ放題チケットを進呈しようではないか」と持ちかけられた場合は、涙を飲んで肉食民を裏切るだろう。

以上で僕がどのレベルで豆腐を好きかはご理解いただけたかと思う。そして僕レベルの豆腐好きになると、豆腐は絹ごし派だとか木綿派だとか、大豆は国産が良いとか遺伝子組み換えはダメだとか、そういった小さな争いはすべて不毛に見えるのである。すべての豆腐には固有の良さがある。言わば世界で一つだけの豆腐なのである。

例えば真夏の暑い夏の仕事終わりに居酒屋へ冷たいビールを求めて駆け込む時。お供に適した冷奴は出来るだけ値段が安いものが良い。一般的に高い豆腐は大豆の香りが強くなるためだ。真夏の夜の一杯目のビールにおいて主役はビールである。ここで冷奴は名脇役として冷たくつるんと舌をなでていただくだけでいてくれるのが望ましい。香りの強さが魅力の高級豆腐だと、斬っても斬っても死なない時代劇の脇役のように、主役を食ってしまい作品全体の仕上がりがブレてしまうのである。

また昼ごはんを10分で食べ終わらなければならない局面における小鉢の冷奴において。最重要な要素は味でも香りでもなくサイズと固さである。エネルギー補充のための昼食の場合、小鉢の豆腐は締めの清涼感を担う。バリバリで油臭いアジフライとご飯を、味噌汁を挟みながら交互に飢えた胃袋に充填した後には断じて締めの清涼感が必要である。例えその豆腐の上に乗っているのがパリパリに乾いた刻みネギ3個でも、チューブの生姜がちょこんと気持ちだけ乗ってるだけだったとしても、それは大した問題ではない。大事なのは一口サイズであること、そして箸で豪快につまんでも崩れないことである。そのお豆腐を一口締めで口に放り込むことにより、午後からの仕事を精神的な胃もたれなくこなすことが出来るのである。こうなるともう、10分昼食の締めの冷奴が、日本経済を支えてきたと言っても過言ではない。

このように僕レベルの豆腐好きになれば、誰もが美味しいという高級豆腐にだけでなく、日常をともにするささやかな豆腐にも最大限の愛情を注ぐことが出来るのである🐶

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