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エペソ人への手紙 第1章


エペソ人への手紙について


パウロの獄中書簡のうちの一つ。

AD 61年頃に、コロサイ書と共にローマで書かれた。

コロサイ書が教会の頭であるキリストについて書かれているのに対し、
エペソ書はキリストのからだである教会について書かれている。

有力な写本には「エペソ」という地名がなかったり、他の理由からも、エペソ宛ての手紙というよりは、
エペソを含む小アジアの諸教会への「回覧板」のようなものであった可能性が高い。


神の恵みをほめたたえる

  (3〜14節)

神に選ばれた私たち(3〜7節)


3節から14節までは、神様が私たちキリスト者にどんなに大きな祝福を与えてくださったのかが記され、
そのような神様をほめたたえることから、パウロはこの手紙を始めています。パウロによる壮大な賛美歌です。


3節に「神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」とあり、
その「霊的祝福」の具体的な内容は、4節以降に記されています。

・永遠からの選び(4節)
・神の子とされる(5節)  
・贖罪、罪の赦し(7節)
・御国を受け継ぐ(11節)


すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、
 エペソ人への手紙 1章 4節a

聖書 新改訳2017

エレミヤなどは、母の胎内に造られる前から選ばれていたと言っていますが(エレミヤ1:5)、
ここで、パウロは、神様は天地創造の前から私たちのことを選んでくださったと言っています。

永遠の昔(天地万物が創造される前)から、神様は私たち(=預言者や伝道者だけではなく、私たちすべてのクリスチャン)のことを愛しておられ、選んでいてくださり、
大きな恵みを実際に(現実のものとして)私たちに与えるために、神様は私たちをこの世に造ってくださいました。


そして4節後半から7節にかけて、神様が私たちを選んでくださった目的が記されています。


1.御前に聖なる、傷のない者にするため(4節b)

"神は・・・私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。"
エペソ人への手紙 1章 4節

聖書 新改訳2017

"このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。"
 エペソ人への手紙 1章 7節

聖書 新改訳2017

神様に敵対していた私たちに、神様の方から仲直りの手を差し伸べ、神様の方から罪の赦しのためのキリストの十字架を用意し、私たちを聖めて、受け入れてくださった。


私たちはキリストの十字架の恵みによって、すでに傷もシミもない聖い者にしていただいている。

 しかし、それなのに、自分が傷もシミもない聖い者にされたということを信じきれないで、自分に赦されない罪が残っていると思っているなら、その人は福音に逆らっているのです。

感覚的に自分にはシミや汚点があって恥ずかしく思えても、神様はあなたのことを傷もシミもない聖い者と認めてくださっておられます。


2.ご自分の子にしようと(5節)

神様は私たちをご自分の子にするために、私たちを選ばれた。


私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。"
 エペソ人への手紙 1章 5節

聖書 新改訳2017


ここに「イエス・キリストによってご自分の子にしようと」
と書いてあります。

イエス・キリスト(の十字架)の御業によってのみ、私たちは神様の子とされることができるのです。

言い換えれば、私たちの側の功績(行い)は全く必要ないし、あっても何の役にも立たないのです。


3,私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるため(6節)

新共同訳では「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」 と書いてあります。

神様が私たちを選ばれたのは、神様が私たちに与えてくださった恵みの素晴らしさのゆえに、神様の栄光がほめたたえられるためです。
これが、神様が私たちを選ばれた最終目標です。


エペソ書1章3〜14節は、パウロが作った賛美歌のようなものです。

6節、12節、14節と3回も「ほめたたえる(ほめたたえられる)」という言葉が繰り返し出てきています。

この3〜14節には、神様が私たちのためにどんなに多くの御業をなされたか、
神様がどんなに多くの恵みを私たちに与えてくださったか、
その恵みの数々が記されています。
そして神様の素晴らしさ、栄光をほめたたえています。



神の奥義(8〜12節)


"この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ、
みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、
時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。"
 エペソ人への手紙 1章 8〜10節

聖書 新改訳2017


私たちと神様を引き離すのは、
罪だけとは限りません。

神様の御心(ご計画)に対する無知や盲目が、神様と私たちの間に距離を作ってしまうこともあります。


しかし、神様は、神様の御心(ご計画)を私たちにもっと深く知らせるために、知恵と思慮(口語訳では知恵と悟り、新共同訳では知恵と理解)を私たちに与えてくださいました(8節)。

それによって、私たちは神様の御心の奥義を知ることができます。

それは、「時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められること(10節)」です。


これには、2つの意味があります。

まず一つは、教会を造ることです。

天にあるもの(=キリスト、聖霊、御使い、神の御心)と地にあるもの(=人間、被造物)が、教会において一つになるのです。

しかし、それは不完全な一体性であり、この世では完全に一つ(一体)になることはできません。

「天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、(完全に)一つに集められる」 のは、
やはりキリストの再臨のときであり、終末のときです。

来たるべき永遠の神の国(天国)において、それは完成されるのです。


"またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。"
 エペソ人への手紙 1章 11節

聖書 新改訳2017


「御国を受け継ぐ者になりました」は、ギリシア語原文では、「くじで定められた」という意味です。
 くじが当たるというのは、
自分では決められないし、
当たったらやめることもできない。
また誰も変更できません。

あなたが神の子とされ、御国の世継ぎとされたということは、闇の勢力すべてを総動員しても、あなたから奪い取ることはできないのです。

  【参照聖句】
さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 
 (マタイ25:34)

キリストによって、傷なき聖なる者、神様の子とされた私たちは、
やがてキリストの再臨のとき、最後の審判のときに、永遠の命と永遠に滅びることのない身体をいただいて、天の御国でキリストと共に永遠に安住することができます。
そしてそれは誰も変えたり、取り消したりすることはできません。



聖霊の証印(13〜14節)


"このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。"
 エペソ人への手紙 1章 13節

聖書 新改訳2017


御言葉を聴いた人たちが、御言葉を信じて信仰を持ったとき、神はその人のうちに聖霊を住まわせてくださる。

聖霊は、その人が神のものであるということを保証し、その人を聖別し、神様がその人を保護しておられるということを保証してくださるのです。


エペソ教会の欠けを満たす

 (1章15〜23節)

エペソ教会の長所

"こういうわけで私も、主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛を聞いているので、
祈るときには、あなたがたのことを思い、絶えず感謝しています。
 エペソ 1章15〜16節

ある日のこと、ローマにいたパウロのもとにエペソ教会の様子を見てきたという人がやって来ました。

かつて、パウロが福音を伝えたエペソ教会の信徒たちは、パウロから聴いた御言葉を信じ、信仰に固く守っていました。

それだけでなく、エペソ教会の信徒たちは、多様な人たちの集まりでしたが、お互いに愛し合い、受け入れ合っていました。

それを聴いたパウロは、どんなに嬉しかったことでしょう。使徒(伝道者)にとって、こんなに嬉しいことはありません。
 パウロは神様に感謝の祈りをささげました。


エペソ教会に足らないもの


しかし、エペソ教会には、まだまだ足らないところもありました。

ヘブル書の中に、
「私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。(ヘブル6:1)」と書いてあります。 

エペソ教会の信徒たちも、初歩の教えは立派にマスターしましたが、そこにとどまらないで、さらに成熟を目指して、より高度な知識を身に着けて欲しかったのです。

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
啓示の御霊が与えられて、心の目がはっきり見えるようになって
 エペソ 1:17〜18

具体的な内容が18節以降に書いてあります。

1.神の召しにより与えられる望みがどのようなものか。(18節b)

2.聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか。(18節c)

3.神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるか。(20節)

 
一つずつ見てまいります。
まず一つ目は「神の召しにより与えられる望み」です。

エペソ教会の信徒たちは、15節に書いてありましたように、信仰もあり、愛もありました。   
しかし、彼らには希望がなかったのです。(あるいは、まだ知らなかったのです。)

その希望というのは、信仰者が目標とするものです。そして約束の御言葉を信じて、約束されたものを待ち望むことです。

具体的には、ピリピ書の3:20〜21にも記されています。

"しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。"
 ピリピ人への手紙 3章 20〜21節

聖書 新改訳2017

それは、天国と永遠の命であり、御国の世継ぎとされることです。

そしてそこでは、私たちの卑しい身体がキリストと同じ栄光に輝く身体に変えられます。これを栄化と言います。(上記、ピリピ3:21を参照) 


2つ目の「聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか。(18節c)」というのは、
一つ目のところで学んだ天国や永遠の命、栄化の恵みが、どれほど栄光に富んだものであるかということです。

一つ目のことは目標を目指して歩んでいくことに重きを置かれていますが、
この2つ目のことは、やがて手に入れるもの、それ自体の栄光に輝く素晴らしさを知っておくということです。

それらのものは、この世では得られない、もちろんいくらお金を積んでも得られない、栄光に輝く素晴らしいものです。

目に見える物質的なものを追い求めてばかりいるのではなく、
目には見えないけど、栄光に輝き、決して朽ちることのない永遠に続くものを追い求めて参りましょう。


3つ目は「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるか。」ということです。

20〜21節で、神の全能の力がどのようなものであったか、どれほど大きなものであったかが示されています。(=復活と高挙と統治)

そして神様は、これほどまでに大きな力を、私たち信じる者にも働かせてくださるのです。

これは、もちろん死後の復活や再臨の時に天の御国に高く挙げられることなども含みますが、
それだけではなく、現世でも与えられるものです。

先ほどエペソ教会の信徒たちは、愛と信仰はあったが、希望がなかったと申しました。 

皆さんはいかがでしょうか。

現実にばかり目が行ってしまって、 将来に希望を失ってはいないでしょうか。

しかし、全知全能の神様が私たちと共にいてくださいます。

そして神様は私たち信じる者のために動いてくださり、全能の力を働かせてくださいます。

この神様の無限の愛と全能の力を、 お独り子イエス様を十字架に架けるほど私たちのことを愛してやまない神様の愛と、死者をもよみがえらせることがおできになる神様の全能の力を、
私たちはもっと本気で信じて参りましょう。


教会の至高性


また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。
教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。"
 エペソ人への手紙 1章 22〜23節

聖書 新改訳2017

「すべてのものをキリストの足の下に従わせ」=全宇宙を含む天地万物すべての被造物を従えておられる御方が、教会のかしらとなってくださった。


教会のかしらは、牧師でも役員でもありません。万物を従えておられる御方であり、身代わりになって命を捨ててくださるほど愛してくださる御方が、教会のかしらになってくださったのです。


教会はキリストのからだです


これには、いくつかの意味があります。

1.頭が身体をコントロールしているように、教会をコントロールできるのは、キリストだけです。
 キリストは御言葉を通して、教会を導く。牧師はキリストの御言葉(御心)を取り次ぐ道具(器)にすぎない。 

2.身体にはいろいろな器官があり、それぞれ機能があるように、
教会も信徒それぞれ個性もあり、違った役割があります。
無くてもいい器官が無いように、いなくてもよい信徒もいないのです。


しかも、教会はすべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。 
言い換えれば、
教会は、愛と恵みに満ちておられる御方、天地万物すべてのものを従えておられる御方、すなわちキリストが、すみずみまで支配しておられます。

教会に来られないような弱い信徒も,お年寄りや幼い子どもも、
求道者も、キリストはすべての人を満たすことがおできになります。


私たちは「うちの教会はあれがないから駄目だ」とか「これがあったらいいのになぁ」とか、牧師や信徒に対する不平不満を言いやすい。

しかし、教会はすべてを満たすことがおできになる御方が統治しておられます。

本当に必要なものであれば、本気で祈れば与えてくださるでしょう。  

しかし、私たちはまず、すべてを満たすことがおできになるキリストが共におられ、キリストが教会を統治していてくださる。 
そのことにまず目を向け、キリストにすべてを委ね、キリストに導いていただきましょう。


2章につづく



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