見出し画像

世界史漫才後半「あとがき」抜粋

 連載を終えたので、冊子版の後半の「あとがき」の抜粋を載せます。こういうものが生まれた経過のごく一部の話というか、回顧です。

 まだインターネットもない時代、授業のネタ探しも、新しい知識や学説を吸収することも阪神間から離れた郡部に住んでいると、意識していても困難だった。毎日、授業の視聴率とウケ具合を「今日は0勝3敗だった」「今日は2勝1敗だったな」と自己採点していた。そんな小さな遊びというか、教員間の意思疎通をしていないと気持ちが持たないくらい、最初の赴任校は筆者にはつらい職場だった。
 目の前の生徒たちが進む次の世界は工場や企業だったので、筆者の当初の大学の歴史学と高校世界史をつなぐという目標は当面お預けだった。それでも、ヒマつぶしになるように、副読本プリントの配布を始めた。配ったら読んでくれる感触は2年間教えていく中で感じたからだった。
 4年間の専門高校で思い知ったことは、中学校・高校に行きながら学校的価値を否定することに自分のアイデンティティを見出す「ヤンキー的価値観」が再生産され始めた段階に入っていたことだった。筆者も若気の至りで「普通の空気となって意識されない、通常の学校的価値観や指導を否定するだけでなく、それを止揚する実践をやりたい」と思っていたので、わからないでもない部分もあった。
 だが、目の前にいる大半の生徒は「勉強したくないけれども進級はしたい」「まじめに校則を守っている連中がいるから自分たちは目立つことができる」という自己利益しか考えていない。また否定するだけなら結局は自己否定と成長の拒否でしかない。働き始めたら変わる、違う良い面も出てくるのも事実だが、それには同じことを繰り返すことを成熟と捉え返す自己省察ができなければならない。
 この辺りのもやもやした部分がようやく言語化・文字化されるのは、苅谷剛氏の学歴研究、そしてプロ教師の会の中心だった諏訪哲二氏の著作を通してだったが、それも1990年代後半からだった。
 諏訪氏の著作から学んだことは多い。当然といえば当然なのだが、何を言うかではなく何をするかが大事であり、日常の発言以上に行動や修羅場での肝の据わり方がその人の発言の重みと影響力を決めるのだという事実であり、不必要なおしゃべりを含めて私的な会話(生身の自己を表出する発言)はしないことである。学校の形式的秩序と実力的秩序の担い手と争うのではなく、利用して自分の理想とすることを実現する戦略の重要性と現実性だった。
 だが、筆者の目から鱗が落ちた一番の指摘は、学校にいようとも、教員も生徒も一人の個人としては対等であり、行事などの局面では生徒のリーダーシップが教員の指導力を上回ることもあり得るし、そういう局面が生じないということは生徒の人格的成長という教育目標は実現していない。しかし、そういう成長の場を生み出すものは教員の指導性であり、学びの場としての学校の安定であるが、それは教師が教師を演じ、子どもは高校生を演じるという自然が「人為的構築物」であるという指摘だった。
 「あるがままの自分を受け入れて欲しい」を超えて「学校はあるがままの子どもの姿と保護者の要望を受け入れなければならない」という倒錯した欲望が自然で当然の要求だと社会(とトラブルを避けたい教育委員会)が認め始めた21世紀には、「演じる」ことを求めることはとても困難になっている(そのため、筆者には「無限の可能性」以上に「寄り添う」という言葉が一番嫌いな言葉になった)。
 5年目に阪神間の「進学校」に転勤し、教員になった当初の目標を叶えられる場を得た。進学指導は初めてで手間取ったが、最初は楽しかった。世界史に興味を持ち、意欲的な生徒も多かったが、すぐに嫌になった。彼ら・彼女らが求めていたのは「志望校に合格できる実力をつける」ことであり、人格的な成長には関心のない利己的な面が見えてきたからだった。「ああ、これが進学校と伝統校の違いか」と納得したというか、痛感した。2校目で発行し始めた世界史副読本は、当然ながら専門書や概説書・新書の内容、具体的には「教科書の記述は、なぜこうなっているのか」「教科書では、こうとしか書けなかった理由は何か」を解説するのが基本路線だったが、次第に「偉人・成功者のいやらしさ」という裏面を書き、「こういう無私の人たちがいた」「庶民の願いを掬い上げた人がいた」ことを伝える内容が増えた。
 また「教師を演じる」ことは続けていたが、副読本プリントでは「素顔の自分」を出していくようになった。それは自分の趣味である映画、特撮モノ、マンガ、奇人変人列伝、勉強の足しにもならないし何の役にも立たない「観光裏物件」を紹介し、それを「考える素材・きっかけ」として使うという意味である。こうして「スイカは無駄なタネのある部分が一番おいしい」という筆者の授業方針が固まった。「お笑い」は授業中のアドリブで使っていたが、これも「受験の役に立つ部分」と「役に立たない部分」を結合したから成り立つ笑いだった。
 3校目は、教科内にどうしようもない人たちがいて、私は日本史担当になり、世界史からは遠ざかった。遠ざかったが、本気で日本史を勉強したことで自分の歴史を見る目は変わり、考える切り口は増えた(「歴史総合」が始まろうとしている2021年となった今はやってて良かったに評価は変わった)。
 そして日本史教師として4校目の兵庫県下唯一の国際科高校に2006年に転勤した。2年目から世界史B、日本史B、倫理を担当するようになった。特に倫理を担当したことは授業中に「笑い」「切実な問い」がどれだけ必要なことかを痛感する機会と修業の場だった。
 以上の教員としての曲がりくねった道を進む中でこの裏教材「世界史漫才」が自然と生まれた。次々とギャグを混ぜ込みながらネタを書いていた時、筆者は興奮していた。「こんなものを書くことができるのか」と、人生で自己評価が最高値をつけた3年間だった。生徒はもちろん、世界史教員、大学の西洋史関係者にも評判は上々だった(自分で言うのも何だが)。だが、2014年あたりから「この生徒たちは冗談と事実の区別ができなくなってきたのでは」と怖れるようになった。また、自分の至らなさ(学力の低さ・知識量の少なさ)を恥じるのではなく、「私にわかるように教えてくれない」「私の気持ちをわかってくれない」ことをアピールする生徒が増えていた。こうして2014年度の3年生を最後に「世界史漫才」は封印された。
 しかし、新しい指導要領に移行する前、最後にやっつけ仕事で終わった部分を手直しし、過去の資料としてきちんと残そうと思った。こうして紙媒体でも残したが、ネット上のサイト"note"に投稿・公開している。還暦を前にして、こんなつまらないものでも、若い世代の参考になれば幸せです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?