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しばらく休みます。帰ってきます

「世界史漫才」の漫才化計画への準備運動として、漫才調に改造した「哲学漫才」の掲載も全29回で終わりました。こちらの方から閲覧者もフォロワーも急激に増え(当社比、ミクロな数字です)、閲覧数は平均で一日70回強、「スキ」は8回強に届きました(本当にミクロな数字ですが、私には驚きです)。
 「世界史漫才」もそうですが、一本の記事(文章)が長い上に、非常に狭い読者層しか想定できない分野を戦場にしました。そこに興味を持つ奇特な方々の目に留まるよう10年前の対話調の文章を一回90文字以内に制限して「より漫才化」してみました。私をフォローしてくださる皆様は一記事に3桁の「スキ」がつく「文章の達人」「ネタの達人」であり、そのネタも「記事にふさわしい対象」を鮮やかに切り取って料理されています。
 私が出陣する戦場は「旬のネタがない」というか、「長期保存食の見本市」とでも譬えることができる分野です。しかも全国規模の模擬試験で偏差値を出すと47~50あたりをウロウロする、つまり「歴史オタク」も「自意識過剰な現代思想好き」も在籍していない学校です。そんな「興味・関心の砂漠」の草原化に挑んできた記録が、ここに掲載してきた教材の出発点です。
 AL推進派の方にはフォローを停止する人もいらっしゃるかも知れませんが、私はアクティブ・ラーニングには懐疑的な立場です。方法が自己目的化する例、活動あって学びなしの例は、いくらでもあります。批判するだけなら簡単ですが、意味は(ほとんど)ありません。
 それどころか「エビデンスを出せ」とか「生産性がある・ない」とか、マーケティング用語というか威嚇言語をなんの疑問もなく使用する人たちと「対話」が成立するとは思えないからです。
 そこでこちらがパロディ的に打ち出したキャッチコピーが「主体的・対話的で深い笑い」です。笑うためには対象への理解、少し逸らした文脈や意味(本歌)への理解がないと成立しません。思わず、不覚にも、悔しいけど笑ってしまった時、そこには刺激された主体、時間と距離を超えた対話が成立しているはずです。そしてこの対話と反響の響き合いこそが人文学の本質であり魅力だと私は思っています。
 ここからしばらくは意図的に「作者急病のため休載です」に入ります。そして7月下旬に入ったら、「世界史漫才:序(仮)」というか再構築版の制作・掲載に入ります。そこで再びお会いしましょう。その時は、またよろしくお願いします。

デキン原人(シアントロプス・デキネンシス)

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