世界史漫才再構築版69:ブレジネフ編
苦:今回はレオニード・ブレジネフ(1906~82年)、フルシチョフ失脚の1964年から1982年まで書記長としてソ連に君臨した最高指導者です。
微:ああ、ボケた目の熊みたいなオッサンだな。モスクワ市民が赤の広場で「ブレジネフのバカ!」って叫んだらKGBが現れて「国家最高機密漏洩罪で逮捕する」と拘束される小咄ネタの。
苦:いきなりアネクドータですか。彼が生まれた1906年はまだロシア帝国の時代で、エカテリノスラフ県カメンスコエで生まれました。
微:そこって今のウクライナのカーミヤンシケ市だし、ずっとウクライナ訛りで喋っていたよな。
苦:父イリヤも祖父もウクライナの少数派民族のロシア人で、金属加工を家業にしてました。1921年に家族と共にクルスクへ転居してます。
微:ウクライナの『散所太夫』と呼ばれてもおかしくないな。
苦:日本じゃありません。1923年に共産党青年組織(コムソモール)に参加し、そこから大学進学の機会を得て、指導者になっていった「60年代ソ連指導者」の典型でした。
微:シベリア出兵は終わったけど、まだレーニン生きている微妙な時期だな。
苦:まあ、利に敏いウクライナ系ユダヤ人は亡命してます。1923年は関東大震災が起き、横浜へ行く予定だった白系ロシア人というかウクライナ人が神戸で生きていく覚悟をした年です。
微:出世するには共産党に入り込むしかなかったから、得点稼ぎが最初からの目的の「ボランティア活動」みたいだな。ま、その程度の人間だろ。
苦:その通りです(きっぱり)。ドニエプロジェルジンスク冶金大学を卒業した1935年に東ウクライナの製鉄所技師になりました。
微:マリウポリの製鉄所で地下壕を掘らされ続けたそうです。
苦:ちゃんとした技師で、マリウポリとは無関係です。でもすぐに陸軍の戦車訓練校に送られ、戦車部隊の政治委員となります。ブレジネフの軍事部門・防衛産業との関係の始まりです。
微:東ウクライナって、プーチンが気合い入れて侵略しているところ、タイムリーだな。
苦:ブレジネフが入党を許された1930年、スターリンは絶対的権力者で、こいつを含めて若い共産党員はスターリン主義者として出世していきました。
微:スターリン時代のウクライナで餓死してない一点だけでも優遇されていたことがわかるな。
苦:しかもスターリンの大粛清で各共和国の党・州の重要職は空席だらけでしたから、すぐに出世できました。まあ、それも忠誠を確保する手段だったわけですが。
微:1950年代にテレビ局に入社した「映画会社落ち」みたいなもんか。しかし、スターリンよりバカしか出世しなかった時代だから、ある程度スペックは想像できるな。
苦:ずっとウクライナにいたんですが、1941年6月に独ソ戦争が始まると、フルシチョフの引きで、ブレジネフは軍の政治委員として活動し始めます。
微:くず鉄を再利用する日々だったそうです。
苦:それは粛清後のソ連軍そのものだろ!! フルシチョフも冶金の技術者上がりなのでそのラインでしょう。1942年のウクライナ喪失後、彼はカフカス方面の政治指導部次長として派遣されます。
微:カフカスってジョージア(グルジア)を含むヤバい地域だよな。しかし、この頃のフルシチョフはスターリングラードに残って戦っていたんだから偉いな。
苦:信頼ですかね。1943年のスターリングラードの勝利以降、赤軍の西進とともに彼も西進し、戦争が終わった時、ブレジネフは第四ウクライナ方面軍政治指導部部長としてプラハにいました。
微:ウォッカの飲み過ぎで、戦車の中で昼寝して、「えっ、ここプラハ?」が第一声でした。
苦:エリツィンならありそうですがね。1946年にブレジネフは少将に昇進して赤軍を去ります。
微:まあ、外交官が内閣法制局のトップに就任する国よりは実績あるんじゃねえの?
苦:それは別の話です。1950年にはソ連最高会議代議員、1952年には共産党中央委員会および最高会議幹部会のメンバーとなりました。ここでもフルシチョフが彼を強く推したのです。
微:次の年にスターリンが死ぬんだから、仲間を増やそうとしている気がするが、気のせいか?
苦:スターリン得意の急な呼び出し&呑めや踊れやの宴会要員だったかもしれません。
微:年いってからの一人でコサックダンスはしんどいもんな。
苦:『屋根の上のバイオリン弾き』かよ!! 1953年3月にスターリンが死にます。
微:ソ連を含めて世界中が祝いましたね。ソルジェニーツィンとトルーマンが祝杯をあげている写真が残っています。
苦:どこの収容所群島だよ!! そのフルシチョフですが、すんなりと最高権力者になったわけではありません。スターリンの死後、最大の実力者はラヴレンチー・ベリヤでした。
微:日本ではあまり知られていないけど、かつての小沢一郎のようなキングメーカー的なやつか?
苦:1953年にベリヤはマレンコフを首相に祭り上げます。その時、マレンコフは書記局名簿の筆頭にあり、暫定的にスターリンの後継者となっていました。
微:昔、革命記念日の並ぶ順番で共産党内の序列というか権力闘争を推測してたけど、なるほどね。
苦:しかしベリヤの権力掌握を警戒する指導層はマレンコフに書記局の権力をフルシチョフに譲らせます。期待に応えてフルシチョフはベリヤを逮捕・粛清して自分の権力基盤を固めました。
微:まさにアイヒマンのように粛々と処理したと。
苦:フルシチョフは共産党党首たる党中央委員会第一書記に就任して最高指導者としての地位を確立し、マレンコフに首相を辞任させ、後任には腹心のブルガーニンを充てました。
微:ジュネーヴ四巨頭会談には出席していたけど、「お飾り」だったんだな。
苦:この時期のソ連の権力闘争は世代間の争いでもあり、そうなるとフルシチョフにとっては忠実な「家来」の必要性が高まります。その一人がブレジネフでした。
微:逆にブレジネフくらいしか腹心がいないフルシチョフがかわいそうに思えてくる。
苦:フルシチョフの命令で彼は1954年からカザフスタンの開拓事業を指導します。カザフスタンはソ連の宇宙開発で重要地点で、そこをフルシチョフ体制で掌握することがブレジネフの任務でした。
微:本場のコサックダンス修業は大変だったと晩年に回想しています。
苦:何しに行ってるんだよ!! 1956年にブレジネフはモスクワへ呼び戻され共産党中央委員会幹部会員候補兼書記として防衛産業、宇宙計画、重工業および首都建設指揮の任務を与えられます。
微:ソ連の将来を担う部門を全部握るとは、すごいな。
苦:要するにフルシチョフの「鉄砲玉」として古参幹部との権力闘争に挑んだのです。
微:本当は銃撃された際の「肉の盾」要員だったそうです。
苦:世代間の権力闘争は収束せず、1957年にモロトフ、マレンコフ、カガノーヴィチらがフルシチョフの解任を要求する「反党グループ」事件が起きます。
微:革命第一世代の「大三元」と呼ばれたそうです。
苦:『ムダヅモ』じゃねえよ!! まあ、自分がやった「スターリン批判」の自業自得ですが。
微:ハンガリーで反ソ暴動も起きるし、もうこれは責任問題。松井市長でも逃げられない。
苦:中央委員会幹部会でフルシチョフの第一書記からの解任が決まったんですが、巻き返しに成功して中央委員会総会での投票で逆転勝ちし、辛くも第一書記の座に留まりました。
微:逆にフルシチョフにとって邪魔な古参幹部を排除するチャンスになったんだ。
苦:その古参幹部排除の功労者ブレジネフは政治局の正式メンバーとなりました。
微:準構成員から正式に組員になったんだな。
苦:まあ、「スターリン批判」は各国との関係を悪化させましたが、それでもフルシチョフは「非スターリン化」を断固として進めました。その時の「ソ連凄い」宣伝の目玉が宇宙開発でした。
微:スプートニク・ショックね。そこでもブレジネフとつながるわけか。
苦:「非スターリン化」の象徴がソルジェニーツィンの解放と彼の小説出版許可です。「雪解け」は外交だけでなく内政でも進みました。
微:それでずっとソ連時代からロシアは地球温暖化を歓迎しているんだな。
苦:それは緯度の問題!! ブレジネフはフルシチョフの下で「非スターリン化」とソビエト連邦の知的及び文化的政策の慎重な自由化・集団指導体制を支援していました。
微:それは「バカは何もしなくていい」という深謀遠慮か?
苦:自分の体制を維持でき、フルシチョフはキャンプ・デーヴィッドで浮かれてしまいました。
微:「平和共存」という現実的な発言に激怒したのが毛沢東、中ソ対立の始まりね。
苦:1960年にブレジネフはソ連邦最高会議幹部会議長、名目上の国家元首になりましたが、実際の権力は党第一書記のフルシチョフのものでした。
微:それはある意味「お前はマレンコフと同じだぞ」宣言だな。
苦:それは知りませんが、1959年の中ソ対立、1962年のキューバ危機などフルシチョフは失敗を重ねました。さらに頭に血が上ると党幹部に罵詈雑言を容赦なく浴びせました。
微:イスラエルのように自分で敵を量産していくタイプだな。この権力を握る「耄碌じいさん」が邪魔になって、「切る」覚悟を決め、1963年に追放計画に加わったと。
苦:恩で仇を返すこともためらわない、そうでないと共産党では生き残れません。追い落としの中心はイグナトフ、シェレーピン、セミチャストヌイ、ブレジネフでした。
微:恩を仇で返すブレジネフ! しかし話の半分以上がフルシチョフだけど、いいのか?
苦:1964年10月に視察先のウクライナからフルシチョフは急遽、モスクワに呼び戻されます。ブレジネフは毒殺や専用機の爆破をも企んだとも言われています。
微:まさにプーチンの師匠じゃねえか。
苦:1964年10月の臨時中央委員会総会で、詰め腹を切らされたフルシチョフは「自発的に」党中央委員会第一書記と閣僚会議議長辞任、ブレジネフが党第一書記となりました。
微:フルシチョフの出した交換条件が年金支給だったけど、日本も同じくらい切実だな。
苦:ブレジネフは指導者に就任すると、すぐにスターリン復権に動きます。スターリン主義者の多い自分の世代の支持を集めるため、そしてアンドロポフ指揮下のKGBを掌握するためです。
微:まさにプーチンが台頭していく環境が整ったわけだ。
苦:1966年には第一書記を「書記長」へ戻し、政治局の8割以上を自分と同じエンジニア出身者を選んで技術畑で固めました。
微:自分が理解できる話をする人間で固めたのか。まあ、無能なお友達で固めるよりいいか。
苦:さて、ブレジネフ政権最初の危機は1968年のチェコスロヴァキアの自由化改革、いわゆる「プラハの春」でした。チェコの改革運動は東欧諸国の共産党体制を揺るがしたからです。
微:気象庁の発表ではマグネチュード7.5だったそうです。
苦:地震じゃねえよ!! ブレジネフは8月20日にワルシャワ条約機構軍を投入して「プラハの春」を終わらせました。これがチェコ事件です。
微:『北国の春』の千昌夫も借金で終わったよな。
苦:関係ねえよ!「共産圏全体の利益は一国の主権を上回る」「ソ連は社会主義を守るために衛星国の国内問題に干渉する権利がある」という制限主権論はブレジネフ・ドクトリンとして知られます。
苦:しかしこれは、実はフルシチョフが1956年にハンガリーで出したものです。そしてこれで中国に干渉したら1969年のダマンスキー島事件になっちゃったんですが。
微:モンゴル帝国のイデオロギーがDNA化している国同士だからな、一歩も引かない。
苦:1970年代にソ連は対米関係では政治的・戦略的にも優位に立ちました。アメリカのベトナム戦争敗北とウォーターゲート事件の混乱という敵失と第一次石油危機の追い風です。
微:要するに共産主義が進んでいるからではないと。
苦:原油高騰は産油国ソ連にバブル景気をもたらし、その資金で世界的海軍力を整備しました。中東およびアフリカの内戦に資金・武器を援助でき、その政治的影響力を拡張しました。
微:「棚からぼた餅」という幸運を生産設備の更新というか投資に使わなかったんだな。
苦:ブレジネフは自らの国内地位を強化しましたが、ソ連経済は停滞しました。
微:まあ、スマホという個人情報抜き放題アイテムのない時代に計画経済は無理だよ。
苦:技術革新への内発的動機は存在しませんし、ソ連工業はその投資額の大きさにもかかわらず、適切な農業機械をスターリン時代の計画経済と工業生産技術では農業部門に提供できませんでした。
微:国旗のデザインも鎌とハンマーのままだったもんな、進歩のない国だぜ。
苦:別問題だよ! 農業部門は集団化以降、豊作は例外的な出来事でした。もう1970年代初頭で破綻していたソ連経済は資源輸出が生む貿易黒字という延命治療を受けていただけでした。
微:軍備拡張というバカをやってるんだから、それはヤバいクスリでラリってたんじゃねえの?
苦:まあ共産主義も一種の麻薬、依存対象ですからね。マルクスは宗教をアヘンに譬えましたが。
微:なるほど、”Marxism”を日本語に直すと”マルクス中毒・依存症”になるな。
苦:ウマイこと言ったと喜んでんじゃねえよ! 全部を国産で賄うなら、統制価格で市民の不満を和らげることもできたでしょうが、輸入せざるを得ない膨大な穀物がそれを不可能にしました。
微:あの買い物行列の時代にコロナが蔓延してたら、すごかっただろうな。
苦:そのツケが公営住宅・健康保険・教育制度の悪化と、市場価格で動く巨大な「非公式経済」の誕生です。しかも労働生産性が上がらないのに賃金が上がるわけはありません。
微:賃金が上がるとすれば、それ以上のインフレしかないもんな、ジンバブエみたいに。
苦:ブレジネフの最後の、そして致命的な遺産は、1979年のアフガン侵攻です。しかもこの重要な介入決定は政治局の正式決定ではなく、彼の側近グループによる非公式なものでした。
微:まあ、どんな組織でも「非公式集団」が道を誤らせるんだよな、アベノマスクみたいに。
苦:CIAはイスラーム戦士=ムジャーヒディーンらに総額21億ドルの資金・武器を援助します。
微:まあ、タリバーンを育てた、フセイン・イラク大統領に武器を提供したのもアメリカだしな。
苦:ブレジネフはアフガン撤兵を見ることなく1982年に死去します。10年に及んだ介入で約200億ドルが消え、15,000人が死亡、7万人以上が負傷し、今も怪我と麻薬の後遺症に苦しんでいます。
微:間違いなく、麻薬をアフガンで現地調達してるな。作戦そっちのけで。
苦:麻薬がないからウクライナでロシア軍は苦戦していると言いたいのかよ!!(ペシッ!)