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世界史漫才再構築版52:ムスタファ・ケマル編

 微苦:ども、微苦笑問題です。
 苦:今回はトルコ共和国の初代大統領ムスタファ・ケマル(1881~1938年)です。ケマル・アタテュルクと呼ばれ、日本では、革命当時のケマル・パシャの名で言及されることも多いです。
 微:ずっと偽名だったレーニンやトロツキーよりはいいんじゃねえの?
 苦:本名のムスタファは、「選ばれし者」を意味し、ケマルは数学が得意だったために付いた「完全な」を意味するというあだ名です。
 微:日本のヤンキー夫婦なら、サッカーがうまくなるよう、「蒸太斧亜 蹴鞠」って登録してるな、絶対。
 苦:ヤンキー万葉仮名やキラキラネームはいいよ! ムスタファ・ケマルは、1901年に士官学校を卒業して少尉に、1905年に参謀学校を修了して参謀大尉に任官します。
 微:そのスピード出世、よほどオスマン帝国は人材不足だったんだな。
 苦:士官学校在学中からアブデュルハミト2世の専制に反感を抱き、参謀学校の同期生らと最初の任地ダマスカスで秘密組織「祖国と自由」を設立するなど、早くから政治活動に参画しています。
 微:新興国家に多いパターンだな。穏健な中産階級が層をなさない分、軍が政治化する。
 苦:1906年に青年将校や下級官吏が青年トルコ党、正式には「統一と進歩協会」を結成します。
 微:元徴税請負人たちは納税協会を設立しました。
 苦:どでもいいウソはいいよ!! ケマルの属する「祖国と自由」も青年トルコ党に吸収され、1908年の青年トルコ革命は成功します。
 微:その時のメンバーが昨年集まったんですが、周囲から「老人トルコ党」と呼ばれていました。
 苦:話を作るな! その混乱の間隙を衝いて1911年にイタリアがリビアに侵攻したため、ケマルは青年トルコの特務機関の活動家たちとリビアに赴き、ゲリラ戦に従事しました。
 微:だけどサッカー以外でイタリアに負けるって、どんだけ弱い軍隊なんだ・・・。
 苦:第1次世界大戦では第19師団長のケマル中佐は、1915年4月の英仏軍のガリポリ上陸作戦を食い止め、その功績で1916年に准将に昇進して「パシャ」となります。
 微:スマホで写真を撮りまくってインスタに上げまくったんだな。
 苦:パシャは将軍の意味です。大戦末期の1918年、勝ち目はないと判断したケマルはスルタン宛に休戦を勧める電報を打ちます。10月30日にオスマン帝国は休戦協定を締結しました。
 微:というか、19世紀後半から負け続けのオスマン帝国軍で、よく昇進できるよな。
 苦:アメリカだと小さな勝利で大統領までなれるからもっと恐いです。それに、今回は火事場泥棒のようなギリシアまでいます。
 微:独立100周年を盛大に祝うために領土を広げたかったんかな。
 苦:大戦終結後、オスマン帝国は連合国に分割占領され、アラブ人地域は英仏の委任統治となり、やがて独立国になります。
 微:この領土分譲販売でスルタンは荒稼ぎして累積債務を清算したそうです。
 苦:そんな立派なスルタンなら破産しねえよ! そしてアナトリア各地で占領への抵抗運動が起こります。イスタンブルにいたケマルはひそかに抵抗運動の指導者となろうと決意していました。
 微:それで、まずはわけだな。
 苦:1919年にアナトリア北部に赴任したケマルは反占領運動の指導者となり、各地に分散していた帝国軍の司令官、旧青年トルコ党の有力者を招集しました。
 微:「壮年トルコ党」だな。
 苦:誰もそんな比喩を求めていません。ケマルはオスマン帝国領の不分割を求める宣言をまとめ上げる一方、抵抗運動を組織化していきます。
 微:なんとか5人確保して、政党助成金は確保しました。
 苦:それも日本の制度だよ! 抵抗運動の盛り上がりに驚いた連合軍は、その勢いを削ごうと1920年3月に首都イスタンブルを占領します。
 微:でもスークというかバザールで迷子になって何もできなかったそうです。
 苦:首都を脱出した国会議員たちはアンカラで大国民議会を開き、スルタン政府にかわって国家を代表するアンカラ政府を樹立しました。その首班となったのがムスタファ・ケマルでした。
 微:いかつい軍人ばっかりだったので、陰で「バンカラ政府」と呼ばれました。
 苦:高校生にはわかんねえだろ、そんな死語! この頃、西方からはギリシア軍がアンカラに迫っていましたが、ケマルは自ら軍を率いてギリシア軍の撃退に成功します。
 微:ガリポリの戦いだな。日本では知られていないけど。
 苦:さらに攻勢に転じて1922年9月に地中海沿岸のイズミルをギリシャから奪還します。かつてはエフェソス、聖書にエペソとして出てくる都市です。
 微:”エペソ・イズミル”と繰り返すと、妖しい呪文に聞こえるな。
 苦:”エコエコアザラク”かよ!! この勝利でアンカラ政府はその実力を連合国に認めさせ、トルコ側に有利な条件で休戦交渉を開かせることに成功しました。
 微:欲を出すから痛い目に遭うんだよな。関東軍もこれを参考にしていればよかったのに。
 苦:それで同年10月、ローザンヌで講和会議が開かれますが、連合国はアンカラ政府とともにイスタンブルのオスマン帝国政府を招聘しました。
 微:それは絶対にイギリスの入れ知恵だな、円卓会議のガンディーうっちゃり再現を狙って。
 苦:ケマルはトルコ国家をアンカラ政府に一元化しようとはかり、大国民議会にスルタン制廃止を決議させました。オスマン帝国が消滅した瞬間です。
 微:そしてケマルは自分が新しいスルタンに就任しました。
 苦:袁世凱じゃねえよ! ケマルは翌1923年には総選挙を実施して議会の多数を自派で固め、共和制を宣言して自らトルコ共和国初代大統領に就任しました。
 微:まさに袁世凱! やっぱり軍人の考えることは同じだな。
 苦:1924年、世俗主義者ケマルはトルコ共和国をイスラームから解放するため、議会にカリフ制の廃止を決議させました。これでトルコの脱イスラーム国家化の動きは一気に進みました。
 微:でも、とばっちりでインドの国民会議と全インド=ムスリム連盟の協調が崩れ出すと。
 苦:ケマルは穏健野党の育成も図りましたが、野党の進歩共和党による改革への抵抗、東アナトリアで起きたクルド人の反乱から方針を転換します。
 微:まあ、アルメニア人もいるし、民族自決で細切れになるのも嫌だっただろうなあ。
 苦:1926年には反対派を一斉に政界から追放しました。ケマルが党首を務める共和人民党の一党独裁体制の樹立です。
 微:中華民国、中華人民共和国に通じるものがあるね。改革独裁というか開発独裁というか。
 苦:独裁権力を握ったケマルは、憲法からイスラームを国教と定める条文を削除し、トルコ語の表記をラテンアルファベットに改める「文字革命」を断行しました。
 微:ケマル自身がアラビア文字読めなかったそうです。
 苦:ジョージ1世かよ! トルコ語を表記するのにアラビア文字は相性が良くないんです。セム系言語とアルタイ系言語で、しかもトルコ語には日本語のような助詞があります。
 微:それで昭和の頃は日本語は「アルタイ語族に属すると考えられる」と書かれていたのか。
 苦:提唱者は学習院の大野晋先生だったんですが、この人平成に入るとタミル語説を言うんですわ。
 微:大野先生の岩波新書のやつね。あれはあれで面白かったが。
 苦:それはさておき、文字革命は表記の問題にとどまりませんでした。
 微:ラテンアルファベットが読めるんで、トルコ人出稼ぎ労働者がドイツに殺到するんだろ。
 苦:それは戦後の話です。ケマルはアナトリア各地に残るアルメニア語、クルド語、ギリシャ語、ブルガリア語などに由来する地名をトルコ古語に由来するものに改めさせていきました。
 微:社会主義国の地名変更みたいなもんだな。ペテルブルクからレニングラードへ。
 苦:文化政策面では、私財を投じてトルコ歴史協会、その後トルコ言語協会を設立しています。ペルシア語やアラビア語のコースが廃止され、トルコ語を学習・専攻するコースが置かれました。
 微:トルコ歴史協会からは日本会議臭さがするが、間違ってないか?
 苦:近いです。また、既にローザンヌ条約締結後、ギリシアとはトルコ人とギリシア人の住民交換を行い、トルコ共和国の「トルコ」化も推進しました。
 微:歴史修正主義、国民国家化、作られた伝統を研究する恰好の素材だな、トルコ共和国は。
 苦:当然ながらアルメニア人、クルド人は「トルコ」にはいないことにされました。
 微:まあ、世界中に拡散してるけどな、アルメニア人。デロリアンとかカラヤンとか。
 苦:さて、かなりソ連的な政策が実行されたトルコですが、経済面ではケマルに好意を抱いてたソ連のスターリンが1932年に巨額融資を手土産に経済顧問団を派遣しました。
 微:まあ、欧米からの嫌われ者同士で手を組んだと。
 苦:これを受けて1934年5月からトルコも五カ年計画を導入します。しかし、スターリンの狙いは、やはり南下政策でしょう。
 微:ウンキャル=スケレッシよ、再びか。これが第2次世界大戦直後からの共産党との内戦のきっかけになるわけですね。さすが元祖ひも付き援助。
 苦:また、スイス民法ほぼ直訳の新民法を施行するなど、私生活の西欧化も進められました。
 微:なぜスイスなんだ? 秘密口座を持っていたのか?
 苦:日本のボアソナード民法みたいなもんでしょ。1934年の創姓法をきっかけに「トルコの父」を意味するアタテュルクを大国民議会から姓として贈られます。
 微:狂ったようにトルコ国民国家を作ろうとしたんだから”バカテュルク”(トルコ馬鹿)の方が良かったんじゃないの? 役者馬鹿こと藤岡弘、みたいにもっと迫力出るし。
 苦:友好国とはいえ、日本人しかわからねえよ!! 激動の人生を送ったケマルは1938年11月10日、イスタンブル滞在中、執務室のあったドルマバフチェ宮殿で死亡しました。死因は肝硬変、激務と過度の飲酒が原因とされています。イスラームに反していますが。
 微:世俗化は自分の飲酒を正当化するためだったそうです。
 苦:ケマルが死ぬまで一党独裁制下の強力な大統領として君臨しました。その路線でも、それも間もなく始まる第2次世界大戦という非常事態には最適だったでしょう。
 微:ケマルなら連合国か枢軸かをはっきりと選んでしまったかもしれないな。
 苦:その意味では彼の死は絶好のタイミングでした。後継者は消極的ながら中立政策しか選べなかったし、大戦末期に連合国勝利が見えてからドイツと日本に宣戦しています。
 微:それでもイタリアの節操の無さと比べれば大丈夫。
 苦:話をケマルに戻すと、彼自身は一党独裁制の限界を理解しており、将来的に多党制へと軟着陸することを望んでいたようです。
 微:これも中華風味が漂うなあ。形だけは当選しない他の政党が存在してるもんな。
 苦:これは、イスラムの復活を望む人々などの国内の反体制的=反ケマル的な勢力を強権的に政治から排除しつつ、「西洋化」を進めるという二正面作戦ですね、苦しいけど。
 微:それで軍がイスラーム政党が得票を伸ばすと介入しようとするのか。
 苦:また、彼の死後にはケマルの神格化が進みますが、生前の彼は個人崇拝を嫌っていました。
 微:そうです、神として敬うことをケマルは求めてましたから。
 苦:直接聞いたようにウソを言うな! 以上のようにケマル・アタテュルクは、世俗主義、民族主義、共和主義などを柱とするトルコ共和国の基本路線を敷きました。
 微:まあ、きれいにトルコに染め上げられたもんな。
 苦:そのために反対派を徹底的に排除してきました。彼の後継者となったイスメト・イノニュの政治姿勢は、戦間期のヨーロッパ諸国の指導者と同じ権威主義と共通する部分が多いです。
 微:ナベツネとかド・ゴールに通じるが、やはり中華的。ヌーヴェル・シノワ。
 苦:ナベツネは政治化じゃねえよ!! ケマルの政治路線は「ケマル主義」「アタテュルク主義」と呼ばれ、ケマル個人崇拝と結びついて現代トルコの政治思想における重要な潮流となっています。
 微:現在のトルコでは両派による二大政党政治が展開しています。
 苦:どっちも同じだよ! ケマル主義の擁護者にしてトルコ政治に重きをなす軍の上層部は、ケマル主義を堅持することは不可侵の基本原理であるという考え方をしばしば外部に示してきました。
 微:あー、この辺はミャンマー風だな。弾圧の仕方も、クーデタのタイミングも。
 苦:1960年と80年の軍事政変も「政治家のケマル主義逸脱是正」「ケマル主義擁護」を名目として実行されました。かつての東欧で「修正主義」と言えばどんな介入もできたのと同じです。
 微:トルコ軍の政治化は、元々がそうだけど、冷戦の影響が大きいよな。
 苦:はい、第二次世界大戦後は、ギリシアとトルコはソ連の介入を受けて内戦になります。トルーマンは二か国に封じ込め政策を発表し、反共の防波堤として西側世界に迎えられました。
 微:大西洋に面してないけど1952年には北大西洋条約機構に加盟する強引さ。
 苦:1961年にはOECDにも加盟するんですが、ソ連の綿花大増産という嫌がらせで、主力輸出品の綿花が暴落し、それで外貨準備を十分に確保なくて経済的にも苦境に陥りました。
 微:その結果、アラル海が干上がってしまってるから、痛み分けだな。
 苦:トルコ世俗主義の最終目標は欧州連合への加盟ですが、クルド問題やキプロス問題、ヨーロッパ諸国の反トルコ・イスラム感情などが障害となっています。
 微:EU加盟申請はずっと棚ざらしだもんな。東欧の方が先に加盟しちゃって。
 苦:それもあってトルコ内で反政府運動とイスラーム回帰を活性化してるんです。外交でもオスマン帝国旧領やその周辺に対するトルコの影響力拡大=新オスマン主義を優先しています。
 微:軍も1997年にイスラム派の福祉党主導の連立政権を崩壊に追い込んだけど、2007年には公正発展党のアブドゥラー・ギュルが初のイスラム系大統領として選出されたもんな。
 苦:この流れにエルドアン大統領の誕生もあるんですが、あの人もたいがいですが、体を張ってシリア難民を受け入れ、ソ連の旅客機を撃墜してくれてますから、見守りましょう。

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