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世界史漫才再構築版36:アンリ4世とルイ13世編

 微苦:ども微苦笑問題です。
 苦:今回はブルボン朝の祖アンリ4世(位1572~1610年)とルイ13世(位1610~43年)です。
 微:日本でブルボンと聞くとアルフォートとかホワイトロリータとか安物お菓子メーカーだな。
 苦:いや、新潟のメーカーが高級感を出すために勝手に使用したんでね、順序が反対です。まあ、18世紀のルイ15世はロリコンで有名なのは事実ですが。
 微:美少女を集めた「鹿の園」での息抜きが楽しみだったハゲ野郎ね。宮廷内娼館。
 苦:本題に入ると、ブルボン家の始まりは国王ルイ9世の末子クレルモン伯ロベールに生まれた息子ルイ1世にあります。このブルボン家がフランス王家になるまでが長いんです。
 微:十字軍版「一人でできるもん!」をやってチュニスで死んだ人?
 苦:「まいちゃん」じゃありません。フランスでは聖ルイと崇められているルイ9世の末子ロベールの息子ルイ1世が1327年にブルボン公に叙せら、これがブルボン家の始まりです。
 苦:1328年ィリップ6世が即位してヴァロワ朝が始まると、イングランド王エドワード3世がこれに異を唱え、百年戦争が勃発します。ブルボン家はヴァロワ家の外戚としてを支えます。
 微:上級貴族にしてもらったばかりだから、協力しないとな。
 苦:しかし戦争末期にシャルル7世が即位し、常備軍が創設されると、貴族の国王への抵抗が難しくなりました。時のブルボン家と国王シャルル7世の関係は微妙になりました。
 微:対立候補を擁立する・しないで公明党を揺さぶる大阪維新の会と公明党みたいなもんか。
 苦:1440年に発覚したプラグリーの乱の首謀者はブルボン公シャルル1世。シャルル7世を廃してブルゴーニュ公国に亡命中の王太子ルイを即位させ、中央集権化を押し戻そうと画策したんです。
 微:イングランド撤退で本性を現したと。
 苦:1461年に王太子ルイがルイ11世に即位しますが、貴族たちの期待に反してルイ11世は父の中央集権化政策をさらに進めました。
 微:手のひら返しか。
 苦:当然、ヴァロワ朝と貴族の関係も険悪化しますが、イングランド王エドワード4世も介入してきます。ヨーク家も一応カペー家の血を引いてますし、フランス王位継承権を放棄してませんので。
 微:ここでヒットを打たないとヨーク家も危ないしな。
 苦:そのヴァロワ家もヨーク家も15世紀に次々と当主の早すぎる死から「直系」が断絶します。
 微:つまり、正式な后ではない女性が産んだ子、弟くんたち、近い親戚に王位が移ったと。
 苦:フランス王家も貴族も国を超えた政略結婚ネットワークで外国君主と結びついてますから。また当時も国王や貴族当主には愛人がいまして、庶子の継承を認めるのかどうかでも揉めます。
 微:鎌倉時代の、頼朝の夜伽に妻を差し出して懐妊してくれたら、と願う地方武士団くらいの度量の大きさが必要だな。
 苦:ちなみにヴァロワ家でもシャルル8世の死で嫡流が絶え、オルレアン公シャルルの傍系のフランソワ1世が1515年に王位に就きました。
 微:その劣等感から皇帝位をスペイン王カルロス1世と争ったり、イタリアに突撃したんだろうな。
 苦:そのイタリア戦争ですが、ブルボン公シャルル3世はカール5世陣営についていました。しかもイングランドのヘンリ8世まで巻き込んで。
 微:「反フランス」でならスペインとイングランドは提携できるんだな、さすが国際政治。
 苦:シャルル3世は1525年のパヴィアの戦いでフランソワ1世を捕虜にしてます。ですが、ローマ包囲中に戦死したんで、ブルボン公位はヴァンドーム公シャルルに移ります。
 微:ブルボン公シャルル3世が無意味に張り切りすぎたもんだから。
 苦:ヴァンドーム公シャルルの伯母ジャンヌは、再婚してマドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュを産んでます。このマドレーヌはカトリーヌ・ド・メディシスの母でした。
 微:息子シャルル9世のためにヴァロワ朝を仕切った、あの鬼のようなおばさんだな。
 苦:ヴァンドーム公シャルルの息子アントワーヌは、ナバラ女王ジャンヌ・ダルブレと結婚してナバラ王位も得ました。アンリ4世が即位前にスペイン国境近くのナバラ王だったのはこのためです。
 微:ピレネー山脈のバスク人地域?
 苦:このジャンヌの母マルグリットはフランソワ1世の姉だったものですから、気がつけば16世紀後半にブルボン公は最もフランス王位に近い位置にいました。
 微:藤井九段の一手みたいだな。一発で形勢が逆転してしまう。
 苦:ですが、難点があって、ジャンヌはカルヴァン派を国教とし、領内のカトリック教徒を弾圧したほどの熱心なユグノーだったことです。
 微:それってユグノー版サンバルテルミを自分の国でやってたということか?
 苦:ジャンヌとアントワーヌとの間に生まれたのがフランス王になるアンリ4世です。アンリは頭が切れることで知られていましたが、排泄訓練ができていない困った点でも有名でした。
 微:下半身の「思い立ったが吉日」「人生出たとこ勝負」「出した者勝ち」だな。
 苦:ここでメディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディシスが画策します。殺すためにアンリをパリに連れ出す口実が欲しかったんですね、ユグノーともども殺すために。
 微:その後おいしくいただくためにフランスにフォークを持ち込んだんだな。
 苦:ナバラ王アンリはシャルル9世の妹マルゴとの結婚に追い込まれ、パリに向かいます。「ユグノーとカトリクの融和には二人の結婚が必要」という大義名分には逆らえません。
 苦:苦渋の決断で、アンリはカトリックに改宗します。その結婚式後にカトリーヌの意を受けたギーズ公の兵士たちが1572年のサンバルテルミの虐殺を行います。
 微:殺す側がめっちゃ楽しそうな顔をしている絵のやつだな。
 苦:サン・バルテルミの虐殺で不幸な結婚となったアンリと妻マルゴとの関係は冷え切りました。
 微:マイナス75度で保管する必要があったそうです。
 苦:ファイザーのワクチンかよ! 1574年にシャルル9世が死に、弟がアンリ3世に即位します。一方アンリ4世とマルゴ夫妻の間には子供できません。二人が多くの愛人を囲っていたからです。
 微:映画『王妃マルゴ』では独身時代も節操ない女性として設定されてたが、あれは伏線か。
 苦:1576年にアンリはナバラ王国に逃走してプロテスタントに再改宗しました。「私は間違っていた」と演説し、ナバラ人の心を取り戻し、ヴァロワ朝に挑みます。
 微:バイデンなら言いそうだな。トランプや安倍なら絶対に言わない。
 苦:ウソしか言いません。その結果、ユグノーのナバラ王アンリ、国王アンリ3世、カトリック連盟のギーズ公アンリの三つ巴のいわゆる「三アンリの戦い」と呼ばれる泥沼状態に陥りました。
 微:河合案里夫妻も1億5000万円の軍資金を元手に参戦しました。
 苦:ただでさえアンリだらけでややこしいのに雑魚を混ぜ込むんじゃねえよ!
 微:買収された貴族たちは不起訴処分になったそうです。
 苦:どうでもいいよ! しかしアンリ3世が死ぬと、王位はナバラ王アンリに回ってきます。
 微:ニューヨークからロスアンジェルスへ行くのに東に向かったくらい遠回りしたんだな。
 苦:どんだけ遠回りだよ!! カトリック信者が圧倒的なパリがユグノーの王を受け入れないと悟っていたアンリ4世は1593年7月にサン=ドニ大聖堂でカトリックに改宗しました。
 微:出戻りカトリックだな。でも下半身はヒンドゥー教というか儒教だろ。
 苦:こうしてカトリックが優勢であったフランス国民の広汎な支持を受けることに成功し、1594年2月にシャルトル大聖堂で正式に戴冠式を執り行い、3月に遂にパリ入城を果たしました。
 微:国王の入城儀礼が最近注目を集めているな。
 苦:反アンリ4世派でブルターニュのメルクール公の抵抗も鎮圧し、1595年に同地を平定します。スペインとの和平交渉が始まった1598年4月30日にアンリ4世はナントの勅令を発しました。
 苦:ナントはブルターニュ南端にある港市で、ハンザ諸都市、ネーデルラント、イギリス、スペインとの貿易で栄えていました。
 微:なるほど。確かにオランダ独立戦争とも連動していたんだな。
 苦:この勅令(王令)はカトリックをフランスの国家的宗教であると宣言しつつ、プロテスタントに多くの制約はあるものの信仰の自由を認め、フランスにおける宗教戦争を終息させました。
 微:良心的だな。でもおかげでフランスの商工業は発展に向かう。
 苦:側近たちはアンリ4世に後継者問題で再び内戦にならないよう、きちんとした後継者を残すよう進言します。既に3人の子供を産んだ愛人ガブリエル・デストレを妃にするのを阻止したかった。
 微:でもうまい具合に1599年にガブリエル急死するんだよな。
 苦:1600年にメディチ家のマリー・ド・メディシスと結婚します。アンリ4世も頑張って、6人の子が生まれていますが、愛人は50人くらいキープです。
 微:色んな意味で精力的なヤツだな。
 苦:有能な君主として国民に広く愛されたアンリ4世だったが、何度も暗殺されかかりました。
 微:そのために自分でセーヌ川の水を煮沸して卵を茹でてたんだろ。
 苦:1610年、狂信的なカトリック教徒に刺殺されます。事件は単独犯として決着しましたが、多くの研究者は権力上層部による陰謀の実行犯と考えています。
 微:本当の標的はガンディーだった、と供述しています。
 苦:無視ね。ルイ13世が8歳で即位しますが、母マリー・ド・メディシスが摂政となります。マリーはナント勅令を確認して穏健な政策を行い、政敵のコンデ公アンリと暗闘を続けました。
 微:テーブルの下で足を使って剣や槍を戦わしたそうです。
 苦:しかしマリーはコンデ公の要求を拒めず、1614年に三部会を招集しますが、ルイ13世が13歳となり、正式にマリーの摂政が終わった後でした。三部会の成果はほとんど無いに等しかった。
 微:それで1789年まで放置しても貴族は何も言わなかったんだな。
 苦:そして1615年にスペイン王フェリペ3世の王女アナとルイ13世は結婚しました。これはカトリック勢力同士の軍事的及び政治的同盟を固める伝統に従った王室間、要は政略結婚です。
 微:ままごとみたいな感じだな、この夫妻。名前はフランス語でアンナになるのか。
 苦:最初は、単純に嬉しかったのか、仲睦まじかったのですが、それはごく短期間に終わりました。父アンリ4世が生きていれば、色々と教えてくれるんでしょうが。
 微:卵の茹で方とかな。
 苦:そんなことが国王の夫としての最大の義務にどう役立つんだよ! とにかくルイ13世は政治の方に興味というか全身全霊を傾けるようになりました。
 微:マルクスが聞いたら卒倒するだろうな。まさか、横でマリーが指図してたとか。
 苦:出産は公開ですが。さて、リシュリュー枢機卿を1624年に宰相格の首席国務卿に登用しました。以降、彼がその後18年間にわたりフランスの舵取りを行っていきます。
 微:フレンチ・コネクションならぬイタリアン・コネクションか。
 苦:ルイ13世とリシュリューは懸案だったユグノーの特権剥奪に乗り出し、1628年、14か月の包囲戦の末にユグノーの本拠ラ・ロシェルを陥落させます。信仰の自由以外の特権を剥奪しました。
 微:枢機卿としては、当然やっておきたかっただろうな。
 苦:リシュリューの業績によってルイ13世は絶対君主の最初の一人となります。宮廷から追放され不満を募らせていたマリーは、1630年にリシュリュー排斥のクーデターを企てます。
 微:木人形がピノキオになったような感じがしたんだな。
 苦:ルイ13世もリシュリュー罷免に一旦は同意したんですが、翌日には翻してしまいます。
 微:そりゃ、鬱陶しい母親を側に置いておきたくないもんな。
 苦:母后マリーは追放され、ブリュッセルへ亡命しました。ですが、1635年、フランスは三十年戦争にプロテスタント側で介入し、国王自ら軍を率いてスペイン軍と戦います。
 微:「国家理性」というやつだな。しかし、妻の母国と戦うか。
 苦:ルイ13世とリシュリューは国王直属のアンタンダン(地方監察官)の設置により中央集権化を強化し、加えてル・アーヴル港を近代化させ、強力な海軍を構築しました。
 微:これなしにモネの「印象・日の出」もないな。
 苦:不運なことに、国王とリシュリューには切実に必要とされる税制を改革する時間的余裕はありませんでした。近年、絶対王政国家を「礫岩国家」と表現するのは知ってますよね。
 微:絶対王政でも特権を持った中間団体、つまり社団には手出しできなかった、という話だろ。
 苦:その最たるものが国家財政の王室財政からの分離と安定した税収確保です。そこに手を付けることができず、結局、18世紀末に貴族への課税をめぐって革命になります。
 微:21世紀日本も各種業界団体が主権者以上に優遇されているんだから、しかたない。
 苦:笑って済ませるわけにはいきませんよ。さて、話は突然変わりますが、好色なブルボン朝で、このルイ13世は特殊なんです。王后アナとは没交渉になったことは言いましたよね。
 微:覚えている。かといって愛人を宮廷にプールしていなかったんだろ。
 苦:そのアンナが1638年に後のルイ14世となる男子を出産したんです。
 微:ルイ13世に思い当たる節がないならスキャンダルだけど、出会い頭の一発ということで。
 苦:ルイ13世=バイセクシャル説も強いんです。そう考えるとリシュリュー時代の政務への執心もすんなり理解でします。「たまには変化球で」ってことなんでしょうか。
 微:キミが質問してどうするんだよ!! BL路線は好き嫌いはっきりしているし。
 苦:それと、ルイ13世は薄毛だったんです。それがある日突然、ウィッグを装着して宮廷に現れたもんですから、次の日から関係者全員がウィッグを付け、それが貴族のマナーになりました。
 微:増やしたかったのは笑顔だそうです。最初にヅラ付けたキダタローが側近となりました。
 苦:「ガキ使」の「絶対に笑ってはいけない」状態だったでしょう。加藤茶のように、逆にハゲのヅラを付けてくれるとリアクションもやりやすいんでしょうが。
 微:21世紀のイギリス音楽界でも再流行してるな。QUEENのギタリストのブライアン・メイがこの前、ライプニッツみたいな鬘をかぶって日本に来てたぞ。
 苦:あれは元々の天然パーマのロン毛が白髪混じりになっただけだよ!(ペシッ!!)

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