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世界史漫才再構築版47:ムハンマド・アリー編

 苦:今回はムハンマド・アリー(1769?~1849年)です。
 微:英語発音するとモハメド・アリだな、ヘヴィ級チャンピオンの。
 苦:トルコ語だとムハンマドは「メフメト」、ソロモンは「スレイマン」、イエスは「イーサー」、モーセは「ムーサ」になります。
 微:確かに。日本でジョージが「譲次」になるようなもんだな。
 苦:それは当て字というか、キラキラネームの初期だよ!! それは置いといて、19世紀国際社会とオスマン帝国を手玉に取って、近代エジプト王国の土台を作ったのがこの人です。
 微:そうだよ、こいつが要らないことしなければ東方問題も起きず、混乱しなくて済んだんだよ。受験生に謝れよな!
 苦:まあ野心家でしたから。ムハンマド・アリーはアルバニア系のマケドニア生まれですから、エジプトとは全く関係はありません。子孫の写真見てもわかりますが、美男子です。
 微:やはりエジプトという地はメネス王以来、外来王でなければ治めることができないのか。
 苦:カッコつけんじゃねえよ! 1798年にナポレオン軍がイギリスとインドの連絡を遮断する名目でエジプトに遠征します。
 微:「地球儀を俯瞰する外交」名目で国会から逃げまくった安倍夫妻みたいなもんだな。
 苦:オスマン帝国は対抗上、エジプトに派兵するんですが、その中にいたアルバニア人非正規軍の副隊長がムハンマド・アリーでした。
 微:派遣を請け負ったのは電通とパソナだったそうです。
 苦:そのナポレオン軍はブリュメール18日のクーデタのため帰国しましたので、到着しても戦う相手はいませんでした。
 微:あとは「激しい戦闘の上、フランス軍を撃退した」という盛りまくった功績アピール報告を出して、「濡れ手に粟」という流れだな。
 苦:18世紀末でもエジプトではマムルーク朝以来のマムルークたちが政治の実権を握り、オスマン帝国内の半独立国状態にありました。ナポレオンは彼らと戦ったのでした。
 微:つまり、エジプトの統治権をオスマン帝国側が奪回できるかも、という「整った」状態。
 苦:ナポレオンの遠征でマムルークたちの力が削がれた千載一遇のチャンスを利用し、アリーはオスマン帝国のエジプト総督、マムルークを次々に破って混乱を収拾しました。
 微:教科書にも優雅に水タバコをくゆらせて、部下にマムルークを攻撃させる絵が載っているな。
 苦:出自はともかく、アリーは宿痾とも言える横暴なマムルークの既得権を破壊し、秩序を回復しました。1805年にカイロのウラマー、市民の推挙でエジプト総督に就任しました。
 微:古代アテネのペイシストラトスと同じ、非合法手段で正義を実現して地元有権者の支持を得るパターンだな。でも正体がばれると、総督でも軍人でも西宮の今村元市長でも終わりです。
 苦:中央権力が実効支配できない国では、平安時代の日本や軍閥割拠時代の中華民国のように、地方有力者の非合法暴力を官職を与えることで合法化するのが毎度のパターンです。
 微:アフガニスタンのタリバーンみたいに国全体の権力を奪う発展型もある。
 苦:オスマン帝国のセリム3世はアリーの実力を認めざるを得ず、ムハンマド・アリーは名実ともにエジプトの支配者としての第一歩を踏み出します。
 微:そこに嫌がらせでマムルークが犬のウンコ置いたんだな。
 苦:セコすぎるよ! 1811年にアリーは自分に従ったマムルークまで皆殺しにし、マムルーク勢力を一掃しました。
 微:ビスマルクの「裏切りは歓迎するが、裏切り者は歓迎しない」だな。
 苦:これによりエジプト全域に対する総督の支配が実現しました。でも実際はアリー王朝の事実上の成立でした。
 微:やっぱり、そのウンコ攻撃に業を煮やしたんだな。
 苦:ウソを引っ張りすぎです。ムハンマド・アリーは、エジプトの近代化に必要な税源として農業に目をつけ、服属した地方で検地を行って土地を国有化します。
 微:エジプトの豊臣秀吉と言われたそうです。
 苦:さらにオスマン帝国で行われていた徴税請負制度を廃止して財源を確保、荒廃したナイル川デルタ地帯の灌漑水路を復興しました。
 微:でも水路建設工事は丸投げしたそうです。
 苦:どこの組織委員会だよ!! また新たな農地の開墾も進み、小麦、綿花、サトウキビ、亜麻、絹といった商品作物栽培が進められ、それらは輸出専売制度によって国家財政を潤しました。
 微:エジプトの武帝と呼ばれたそうです。
 苦:全ての農地は国税台帳に記載され、税制改革によって政府の直接税収入はわずか十数年の間に額面にして約10倍に激増し、政府歳入の4分の1を専売収入が占めるまでになりました。
 微:正直者が馬鹿を見てたんだな。アホが見るのはブタのケツだったけど。
 苦:いや、中国宋王朝以降の歴代王朝の税台帳や徴税額もいいかげんでしたから、こんなもんでしょう。日本でも江戸時代であっても農地の全部を掌握するのは不可能でしたから。
 微:それまでどんな徴税率だよ。本人が手続きしてないのに、勝手に免除通知でも送ったんか? そんなんじゃ国税庁はおろか社会保険庁でも採用されないぞ。
 苦:ムハンマド・アリーは改革で得た収入を財源に、西洋式軍を整備し、西洋式の兵器を国内で生産するための軍需工場を建設しました。
 微:「殖産興業」「富国強兵」の手本だな。スフィンクスの前で記念写真撮っただけじゃないと。
 苦:またそれ以外にも輸出品である織物の国営近代工場を設立し、それらを支える軍人、技術者、教師をヨーロッパ諸国から招きました。
 微:「お雇い外国人」だな。もしかしてこれで味を占めてスコットランドの学者が大挙して日本に来たんか?
 苦:エジプト人に近代的な知識を提供するための出版物の翻訳・出版を行う翻訳局も設立され、優秀な若者はパリに留学生として送られます。
 微:むしろ、末期江戸幕府がムハンマド・アリーの施策をパクっていたと考えた方がいいな。
 苦:そうです。宗派に関係のない徴兵制が施行され、イスラム教育にかわって実用的な学問を教える中等・初等学校が設立されました。
 微:ここはフランス的だな。フランスからすると、エジプトは弟分だな。
 苦:このようにアリーは税制や教育、兵役などあらゆる面で全エジプト人が宗教の帰属にかかわりなく平等に扱われる新時代の道を開きました。
 微:それで、スエズ運河絡みでイギリスがしゃしゃり出てきて反英闘争になるのも納得。
 苦:おっしゃる通り、ウラービー運動です。その結果、近代的なエジプト国民の意識が創出され、1881年にその可能性、つまり「エジプト人のためのエジプト」が見えたのです。
 微:キミの模擬試験でいうと、年に1回だけ出るB判定くらい儚いものかもな。
 苦:イスラム世界における近代化をオスマン帝国に先んじて推進したアリーのもとで、エジプトの国力は急速に増強されました。
 微:イスタンブルのスルタンは、さぞや悔しかったろうな。
 苦:1818年にはワッハーブ派がアラビア半島に興したワッハーブ王国を滅ぼしますが、これもスルタンの依頼です。
 微:「なんでサウード家を滅ぼさなかったのか!!」「オレは兄弟を皆殺しにしたぞ!!」と激怒されたそうです。
 苦:そのネタは触れないであげてください。アフメト3世で終わりますから。ほいで1820年からは南のスーダンに侵攻し、スーダン北部をエジプト領に併合しました。
 微:ラメス2世でもそこまで征服しなかったのに。どこかから地上げ資金が流れ込んでいたんだ?
 苦:1821年にはギリシア独立戦争が本格化します。オスマン帝国はこれを独力で鎮圧することができずエジプト軍の来援を求めました。
 微:ここまでくると、町内会対抗運動会のノリだな。助っ人で勝負が決まる。
 苦:アリーは支援の見返りとしてシリア地方4州の行政権を約束されましたが、オスマン帝国のマフムト2世はこれをしらばっくれました。
 微:アリーは怒るわな、自分より弱いやつにやられると。足利義昭に激怒した織田信長状態。
 苦:ただ、信長の息子は石原慎太郎の子どもレベルですから。アリーは1831年に長男イブラーヒームをシリアに遠征させ、武力でこれを奪取しました。これが第一次エジプト事件です。
 微:アリーの強欲ではなく、オスマン帝国の節操のなさが原因だったのか。
 苦:列強がこの問題に介入し、結局1833年になってオスマン帝国とエジプトはクタヒア条約でアリーに一時的にシリアの行政権を譲ることで和解します。
 微:でも、それってアリーより危険なロシアに頼んだってことだろ、後先考えろよな。
 苦:はい、ロシアのニコライ1世は支援の代償として、ウンキャル=スケレッシ秘密協定でボスフォラス海峡とダーダネルス海峡の自由通行権を獲得します。
 微:これはオスマン帝国の「日米安保条約」だな。実質は属国になってしまう。
 苦:1830年代の後半に入ると、ムハンマド・アリーはフランスなどの支持を得てエジプトの独立をオスマン政府に認めさせようとしましたが、列強の強い反対で失敗します。
 微:ここで「恩を売る」形で独立させていたら。「のんさん」と同じ展開で双方が不幸。
 苦:マフムト2世はアリーへの敵意をより募らせ、1839年にアリーの長男イブラーヒームが駐留するシリアのアレッポに向けてオスマン帝国軍を進撃させ、第二次エジプト事件が勃発します。
 微:こっちも原因はオスマン帝国側か。ロシアと同じくらい懲りない国だな。
 苦:しかし開戦直後にマフムト2世が急死し、新たに即位した若いアブデュルメジト1世はアリーの子孫にエジプトの総督職を世襲させるという妥協案を提示して和解を図ります。
 微:ファミリーマートじゃない、タンジマートを開始したスルタンだな。
 苦:しかし、エジプトの勢力拡大を嫌ったロシア、オーストリア、プロイセンがエジプトとオスマン帝国の交渉に介入します。
 微:「小さな親切、大きなお世話!」だな。藤谷美和子、どうしてるんだろ(遠い目)。
 苦:1840年にロンドンで四カ国協定を結び、その上でアリーに撤兵を迫りました。イギリスはオスマン帝国と共同でシリアへ上陸し、アリーはついに屈服します。
 微:フランスの存在感の無さが致命的だな。
 苦:1841年、アリーの子孫にエジプト総督世襲を認める代償としてシリアおよびアラビア半島の全領土の放棄、陸軍兵数の制限、軍艦新造の禁止などの厳しい条件で和平が結ばれました。
 苦:しかも、オスマン帝国同様に治外法権の承認、関税自主権の放棄、国内市場の開放をエジプトにも承認させます。その結果、エジプトは列強の経済的植民地化の道を歩むことになるのです。
 微:文明の落差がある状態で自由貿易を認めると、明治初期の日本だな。米と生糸のモノカルチュア化したもんな。インドのタタが協力してくれたからいいけど。
 苦:ムハンマド・アリーは1848年に長男イブラーヒームに先立れ、失意と老衰のうちにカイロ市中の自邸で翌1849年に没しましたが、話は終わりません。
 微:イタコを通して命令を出し続けたそうです。
 苦:どうやって調達するんだよ!! 国際貿易に市場が開放され、しばらくはエジプトは莫大な綿花生産が経済を支え、政府主導で近代化路線は形を変えて続けられました。
 微:なんで貿易黒字が出るんだ?
 苦:19世紀半ばの土地私有承認が綿花栽培ブームを誘発したんです。エジプト経済は綿花輸出の利益で繁栄を極めますが、それは南北戦争による綿花不足が生んだバブルでした。
 微:結局、バブルであることを自覚せずに「ごっつい買い物」をしたと。
 苦:はい、バブルの最中に外債でスエズ運河建設が進められました。
 微:今の兵庫県や芦屋市や丹波篠山市の財政状態と同じだな。余計なもんまで作って借金増えて。
 苦:綿花輸出依存は要するにモノカルチュア経済です。エジプト経済は外国の景気変動の影響を増幅して受け、極端に不安定化しました。
 微:経済開発業界の中村うさぎだな。
 苦:また1870年代に米国産綿花が国際市場に大量に流入すると国際綿花価格の下落が引き起こされ、スエズ運河建設資金の返済はエジプト財政に過大な負担となりました。
 微:昭和恐慌で深手を負った養蚕農家の借金だな。
 苦:巨額の対外債務は瞬く間に膨張し、1875年にはスエズ運河株をイギリスに売却、それでも足りず翌年にエジプト財政は破産し、財政部門は列強管理下に置かれることになりました。
 微:IMFに管理された韓国、実質ドイツに支配されたギリシア・イタリアみたいに屈辱だろな。
 苦:しかしエジプト財政の破綻は、既に説明したエジプト史上初の民族運動を呼び起こします。ウラービー大佐を指導者とするウラービー運動です。
 微:この時、イギリスがスパイとしてオーストラリアのワラビーを放ったんだよな。
 苦:サファリパークじゃねえよ! 運動がウラービーの陸軍大臣就任、憲法の制定に及ぶと、エジプト財政を支配する列強の介入を招き、1882年にイギリス軍がエジプトに上陸、革命を打倒します。
 微:ウラービーの熱意が裏目に出たわけだ。
 苦:イギリスはウラービーをセイロン島に流し、エジプトを軍事占領下に置きます。大英帝国の宝石インドを支配するにはスエズ運河の安全保障が最重要課題だったからです。
 微:身の丈を越えた借金、基地の提供は危険だという教訓だな。でも、今の日本の国債発行残高と米軍配置を考えると、かなりヤバくねえ?
 苦:キミの勉強と同じで、成功は一度だけ、失敗は何度も繰り返すのです。21世紀の日本もです。
 微:それにしてもアメリカのポチ国は、どうして不透明な一党独裁・長期政権になるんだ?
 苦:それは、表面化したらまずいお金が動いているのと米軍の駐留というか占領ですよ。

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