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世界史漫才再構築版37:マリア=テレジア編

 微苦:ども、微苦笑問題です。
 苦:今回はオーストリアの「女帝」マリア=テレジアです。
 微:あれ、女帝って竹久みちじゃなかったっけ?
 苦:そんな40年近く前の昭和の事件を高校生は知らねえよ! 第一、もう岡田社長もいないし、三越も伊勢丹に吸収されたよ!
 微:まあ、日本では称徳天皇以来、「女帝」という言葉、いや存在に生理的拒否感を示す民族だな。
 苦:なにを急に適当なインチキ日本文化論を語ってるんだよ! なんとオーストリアのマリア・テレジアって言っているだろ!
 微:オーストラリアと紛らわしい上にスイスとの位置関係で中学生を苦しめている国だな。
 苦:オーストリアの方が圧倒的に歴史が古いよ! 迷惑しているのはオーストリアの方です。『サウンド・オブ・ミュージック』の舞台をスイスと間違える人もいまだにいるし。
 微:そりゃ、セリフが英語だから国籍不明になって当然だよ。オレも映画『アマデウス』で英語をしゃべるヨーゼフ2世にげんなりしたもん。
 苦:そのヨーゼフ2世の母がマリア・テレジアです。
 微:わかった、手塚治虫の『リボンの騎士』のサファイア王女というか王子のモデルだな。
 苦:そうです。シルバーランドの法では国王になれるのは男子だけ。そこに天使チンクのミスで男の心を持った王女サファイアが生まれる。
 微:自分のバカ息子を次の国王にしたいジュラルミン大公のモデルがプロイセンのフリードリヒ2世。ナイロン卿は知らないけど。
 苦:そのバカ息子のモデルは、どう見てもロシアのピョートル3世。
 微:話は亜麻色のカツラをかぶったサファイア王女に隣のゴールドランドのフランツ王子が一目惚れして進むんだよな。
 苦:名前からしてフランツのモデルは、当時としては奇跡とも言える恋愛結婚をしたマリア=テレジアの夫フランツ1世。しかもオーストリアの隣のロートリンゲン公国の君主。ただし小国だけど。
 微:手塚治虫は「読んでもらう」ためには何でもする人間だったからな。代表作で、ダメダメな子どもたちがその著作権で生活している『ブラックジャック』の裏話聞いたことある?
 苦:何本も連載を抱えた手塚先生の事務所に何日も詰めている各出版社の担当編集者が10人近く集まって手塚先生を缶詰状態にしている。
 微:長い人は一週間着た切り雀状態でボロボロ。
 苦:原稿が完成するまで、待合室のテーブルでは「次の〆切は『ブラックジャック』か。じゃあ、その企画だが・・・」って、編集者のブレーンストーミングで話が作られていったという、あれだな。
 微:小人の靴屋だな。まあ、秋元治がネタにした瞳の白をホワイトで塗るだけのさいとうたか○先生もいるわけだし。
 苦:このまま行くと、世界史漫才マンガ家編になってしまうので、話を戻します。対外的称号としてはマリア・テレジア・フォン・エスターライヒ(オーストリア大公マリア=テレジア)です。
 微:皇帝ではないのね。
 苦:1717年5月13日にハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世と皇后エリーザベト・クリスティーネの長女として生まれました。オーストリア系直系ハプスブルク家最後の君主です。
 微:つまり、カール6世には後継者の男の子がいなかったと。
 苦:はい、それでゴリ押しするんです。彼女の子供たちの代からは正式には、夫の家名ロートリンゲンとの複合姓(二重姓)で「ハプスブルク=ロートリンゲン家」となります。
 微:なんかロートリンゲンが東京三菱UFJ銀行の東京みたいだな。どう考えても消えていくことが目に見えている。
 苦:夫妻のなれそめですが、1722年からウィーンへ留学に来ていたフランツ・シュテファン・ロートリンゲンに彼女が一目惚れしたことです。
 微:切れた下駄の鼻緒を結んであげたのがきっかけだったそうです。
 苦:どこの江戸だよ!! 父カール6世もフランツを大変気に入っており、1736年に2人は結婚しました。既に言ったように、当時の王族としては奇蹟にも近い恋愛結婚でした。
 微:誰でもいいから引き取って欲しかったからとんとん拍子に進んだとか?
 苦:ハプスブルク顎の心配は無用です。 ハプスブルク家は中世以来のサリカ法典に忠実に男系で相続してきました。1428年以来、皇帝も世襲するようになります。
 微:それって、ライン川以北の大貴族がやりたい放題するために弱小貴族を皇帝に選んだ結果?
 苦:それは否定しませんが、金印勅書以来、七選帝侯が選んでいますので、「押しつけ」と断定するのは危険でしょう。
 微:まあ、主教改革でローマの「御威光」も下がったしな。
 苦:しかし、1526年のハンガリー喪失、1529年の第1次ウィーン包囲以来、「オスマンの脅威」が弱い皇帝ではだめだ、という危機意識を高めたのは事実です。
 微:「有事に小池百合子」では、どうしようもないもんな。変な横文字の頻出だけ。
 苦:特にドイツ南部の弱小貴族は、生存のためにハプスブルク家と主従関係を次々と結んでいきます。ルター問題で「ドイツ」が揺れても、南ドイツ諸邦がカトリックに留まったのもそれが大きい。
 微:つまり、オーストリア大公といっても、フランス以上に「礫岩国家」だったと。
 苦:いや、皇帝の看板は背負ってますが、「大きな砂岩国家」と言った方が正確でしょう。
 微:少しの雨で崩壊すると。
 苦:しかし、南東ドイツの諸侯にとっては結集点でしたから、ハプスブルク家存続は大問題でした。でも、マリアの兄が夭折して以後、カール6世に息子は生まれませんでした。
 微:スペインのフェルナンドとイサベラ夫妻もそうだったよな。ファナが嫁いでから継承者の息子が死んで。それで一番おいしいところをかっさらったのがハプスブルク家。ここだよ!
 苦:やがて彼女が次期後継者と目されるようになるのですが、サリカ法典が障害になります。
 微:それを日本の子どもにわかりやすく手塚先生は教えてくれたと。
 苦:そこでカール6世は国事勅書を出して、強引に国内および各国に彼女のオーストリア・ベーメン・モラヴィア・ハンガリーなど、ハプスブルク家世襲領の相続を認めさせたわけです。
 微:あくまでハプスブルク「家」の領地の継承であると。アキエの行動は私人であって公人ではない、みたいな説得力のなさ。
 苦:まさにその通りで苦しい言い訳です。女子が軍隊最高指揮官でもある皇帝になることはできなかったため、帝位には娘婿のロートリンゲン公フランツ・シュテファンが就くことにしました。
 微:ヒラリーが実質の大統領をしていたクリントン夫妻みたいなもんだな。
 苦:彼女は一般に「女帝」と呼ばれ、実態も女帝そのものでしたが、実際には正式に皇帝に即位したことはありません。そのカール6世の見通しの甘さは彼の死後すぐに露呈します。
 微:「記者会見をして、反省している」と言えば済む、と森元首相が助言したそうです。
 苦:火に油だよ! 周辺諸国は彼女による相続を認めず、領土を分割しようと攻め込んできました。これがオーストリア継承戦争(1740~1748)です。
 微:やはり、ヨーロッパの国って暴力団とほとんど同じだな。
 苦:プロイセン王フリードリヒ2世が最初にハプスブルク家領のシュレジエンに攻め込みました。
 微:まさに”跡目争い”! さしずめマリア・テレジアは岩下志麻のポジションか?
 苦:『極妻』じゃねえよ! 開戦時、彼女は23歳で、しかも第4子を妊娠中でした。1741年3月にヨーゼフが誕生し、6月にマリア・テレジアはハンガリー女王に即位しますが、これを認めないバイエルン選帝侯カール・アルブレヒトも敵に回りました。
 微:小池ユリコが助言したそうです。
 苦:流れに乗ってるだけです、それでは。彼女はバイエルンとの決戦を戦うため、ハンガリーへ乗り込み、9月にハンガリー議会で演説を行い、軍資金と兵力の提供を獲得します。
 微:志保美悦子だな、『二代目はクリスチャン』の線で。もしかしたら長渕剛の妻かも。
 苦:その後の戦況は苦しく、帝位もベーメン王位もカール・アルプレヒトに奪われ、こいつは皇帝カール7世を名乗ります。
 微:あ、選帝侯の一人だもんな。やるな、カール。
 苦:しかしカールが死んだため、1745年に夫フランツ・シュテファンを帝位に就けることになんとか成功しました。
 微:砒素入りの紅茶でもてなしたそうです。
 苦:それじゃロマノフ朝だよ! ですがフリードリヒ2世に負け、同年にプロイセンのシュレジエン領有を泣く泣く承認しました。
 微:渡す前に枯れ葉剤を撒いたそうです。
 苦:ベトナムかよ! ですがオーストリア継承戦争は国際戦争化しており、援軍の英仏間の戦争は続いたので、最終的に1748年のアーヘンの和約で終結しました。
 微:この戦争中にマリア・テレジアは6人の子を産みました。
 苦:私生活に介入してやるなよ。
 微:いや、マルクス先生も「君主の最大唯一の仕事は子どもをつくることだ」と言ってるしな。
 苦:君主としてのマリア・テレジアですが、国力増強のため、他国に先駆け、全土に同一課程の小学校を新設して義務教育を確立しました。
 微:「国民の創造」だな。グリフィスじゃないぞ、念のため。
 苦:さらに内政、軍隊の改革を行い、外交ではカウニッツを登用してフランスに接近します。
 微:これだけ子どもがいると、学校をいくら増やしても足りないもんな。
 苦:そっちじゃないよ! 長らくハプスブルク家と争ってきたフランスでしたが、当時対立していたイギリスがプロイセンと同盟したため、オーストリアとの同盟を決意しました。外交革命です。
 微:娘を差し出してまで。まあ、それだけフリードリヒ2世を恨んでいたんだな。
 苦:そのシュレジエンを奪還する目的で、フランス王ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人、ロシアのエリザヴェータ女帝の3人の女性で反プロイセン包囲網を結成しました。
 微:小池百合子、高市早苗、福島瑞穂が組むくらいのインパクトはあるな。
 苦:「3枚のペチコート作戦」とも言われます。満を持して1756年、プロイセンにオーストリアは宣戦しました。これも国際戦争となった七年戦争です。
 微:今の高校生から40代にはペチコートといってもわからないだろうな。
 苦:BGMで中島みゆきがかかっていると思ってもらえばいいでしょう。
 微:新しいニュースです。前の戦争が終わって七年戦争開始までにマリアは6人産んでいます。
 苦:そっとしといたれよ! 前回と違いフランスやロシアの同盟を得たオーストリアが優勢に戦争を進めます。しかし1762年に一挙に暗転します。
 微:容量を超えて停電したんか?
 苦:1762年、ロシアのエリザヴェータ女帝が死去し、甥でフリードリヒ2世信奉者のピョートル3世が即位したため、ペチコート作戦が崩壊したんです。
 苦:1763年のフベルトゥスブルク条約で、シュレジエンのプロイセンによる領有が確定しました。
 微:戦争が始まって最後の子マクシミリアン・フランツが誕生します。39才の時の子です。
 苦:出産中継はもういいよ! でも父が後継者問題で悩んだため、彼女はできるかぎり子を産もうとしました。末娘マリア・アントーニア出産時以外は安産だったそうです。
 微:男子5人、女子11人の16人の子供を産む合間に政務をこなしなしていた感じだな。
 苦:子ども一覧を下にまとめました。何人か成人前に亡くなってますが。

①マリア・エリーザベト(1737~1740) ②マリア・アンナ・ヨーゼファ・アントニア(1738~1789、修道院送り) ③マリア・カロリーネ(1739~1741) ④ヨーゼフ2世(1741~1790、 神聖ローマ皇帝) ⑤マリア・クリスティーネ(1742~1798、ザクセン選帝侯家へ) ⑥マリア・エリーザベト(1743~1808、インスブルック修道院長) ⑦カール・ヨーゼフ(1745~ 1761) ⑧マリア・アマーリア(1746~1804、パルマ公フェルディナンド妃) ⑨レオポルト2世(1747~1792、トスカーナ大公を経て神聖ローマ皇帝) ⑩マリア・カロリーネ(1748) ⑪マリア・ヨハンナ・ガブリエレ(1750~1762) ⑫マリア・ヨーゼファ(1751~1767、ナポリ王フェルディナント4世との結婚直前に死去) ⑬マリア・カロリーナ(1752~1815、ナポリ・シチリア王フェルディナンド4世妃) ⑭フェルディナント・カール・アントン(1754~1806、オーストリア=エステ大公) ⑮マリア・アントーニア(1755~1793、フランス王ルイ16世妃) ⑯マクシミリアン・フランツ(1756~1801、ケルン大司教)

 苦:打倒プロイセンのために、娘や息子のほとんどがフランス、スペイン、イタリアのブルボン家の一族、その多くはルイ15世の孫と結婚しました。
 微:これがドイツ諸侯のハプスブルク家離れの一因になるんだろ?ドイツ統一の流れを考えると、この結婚政策は失敗ですね、はい。
 苦:子供に関してはえこひいきもありました。四女のマリア・クリスティーネを最も可愛がり、彼女にだけは相思相愛のザクセン選帝侯の息子アルベルトとの結婚を許しています。
 微:一番ひどい仕打ちを受けたのはマリー・アントワネットだったのか?
 苦:政治でも、1765年にヨーゼフ2世が帝位につくと、啓蒙主義的な官僚の勢いが強まり、改革も次第に急進化していきます。例えば衣装の自由化やイエズス会の禁止などに彼女は怒ります。
 微:息子への最期の言葉は「もうキミとはやってられんわ」だったんだよな。
 苦:それは我々。マリー=アントワネットを心配しながら1780年11月29日にマリア・テレジアは亡くなりました。
 微:でもシェーンブルン宮殿の地下室を開けたら、あと10人くらい子どもが出てきそうだな。
 苦:冗談に聞こえねえよ!(ペシッ!!)

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