世界史漫才再構築版28:オスマン帝国、イェニチェリ、ビザンツ帝国滅亡編
苦:今回はオスマン帝国(1299~1922年)です。ただし、16世紀までね。
微:キミの説明はススマン帝国だな。
苦:オマエが余計なことを言うからだよ! まあ、アナトリア西端のルーム・セルジュークから出てきた山賊の一味ですからね。
微:引き籠るのに飽きたんだな。
苦:ルームは部屋じゃなくて「ローマ」が訛ったもので、バラバラな勢力がいっぱいいたんです。
微:バッハ率いるおねだり族みたいにはまとまらなかったんか。
苦:最初は小さな集団が成長し、1453年にはビザンツ帝国を滅ぼし、1517年にはメッカ、メディナ、カイロというムスリムの聖地を支配する大帝国になったわけですから。
微:ティムール帝国よりも長持ちしたんだから大したもんだ。
苦:始まりはトルコ人の遊牧部族長オスマン・ベイが率いた13世紀末の軍事的な集団です。その1299年即位という記録も怪しいんですけど。
微:1922年のスルタン制廃止の時に覚えやすいように決まったそうです。
苦:誰も信じませんよ。オスマンはアラビア語の「ウスマーン」のトルコ語発音で、第3代正統カリフと同じイスラーム的には由緒正しい名です。
微:アレクサンドロスがイスカンダルになるよりは復元可能だけどな。まあ、スレイマンも「ソロモン」だし、メフメトも「ムハンマド」だし
苦:ですが、トルコ語人名にはありません。「オトマン」ならあります。
微:それが英語で「オットマン帝国」と呼ばれた理由か。
苦:ですが、オスマン帝国スルタンの系図ではオスマンになってます。おそらくイスラームの盟主になった後世の改竄でしょう。
微:実在しているなら、檀君や神武天皇よりマシじゃないのか。
苦:遊牧民とも戦士集団とも言われていますが、周辺の正教徒やムスリムの小領主・軍事集団と同盟したり戦ったりしながら次第に領土を拡大したわけです。
微:国人一揆の盟主から西国を統一した毛利元就みたいなもんか。
苦:これも1071年のマンジケルトの戦いでビザンツ側が大敗して、アルメニアからアナトリア中央部にトルコ人が大挙移住したことに始まるんですが。
微:11世紀はトルコ人の拡大・西進・躍進の時代だからな。アラブ人が騎兵として依存し過ぎたのが原因だけど。
苦:そもそも論では、西突厥の中央アジア移動、次のウイグルの定着に始まるトルコ系の西漸という民族移動の中で理解する必要があります。
微:ああ、中央アジアの「トルキスタン」化ね。
苦:トゥグリル=ベクがホラーサーン地方でセルジューク朝を建てたのが1038年。それからバグダードに入城してアミールを上回る称号としてスルタンを獲得したのが1055年です。
微:すごい勢いだな。ビザンツ側はトランプみたいに国境に壁は作らなかったんか?
苦:ビザンツも国境観念は希薄です。一応ビザンツ皇帝は全世界を支配するものでしたから。
微:しかし現在でも帯状にアナトリアから新疆ウイグル自治区までトルコ系民族が分布しているんだから、移動というより拡大だよな。
苦:そのウイグルが世界中から注目を集めているのが21世紀です。
微:ああ、意識高い系の新疆産綿花を使う企業は中国政府によるウイグル系虐殺とか強制収容に加担しているから買わない、という運動ね。
苦:ロシアとトルコ共和国が黙っている理由を考えたらいいんですけどね。
微:まあ、それぞれジェノサイド、粛清、強制移住をやってるからな。個人的にはアラル海干上がりの方が心配。
苦:それを言い出すと、日本の野菜なんて技能実習生という名の奴隷が生産してますから、日本人も野菜不買をして自分が干上がってしまいます。
微:実は、ワタシもユニクロを買っていません。
苦:それ抗議じゃなくて「高い」からだろ。
微:バレたか。GU、しまむら、業務スーパーで食いつないでいます(シクシク)。
苦:それは可処分所得の使用品目の偏りの結果です。私も人の事言えないけど。話が大きく逸れてますので戻します。1071年以降、アナトリア内陸部へのトルコ人移住が本格化します。
微:それがビザンツ側の領土が海岸線付近だけになった理由だな。
苦:イタリア都市との交易もあったこともありますが。話を2代目オルハンに移します。彼は1326年頃にマルマラ海に面するブルサを攻略し、そこを首都にします。
微:2002年のサッカー・ワールドカップに出ていたトルコ代表のイルハンを思い出した。コンビ組んだらいいのに。
苦:ヴィッセル神戸の古傷に触らないように。そこにビザンツ側で皇帝後継者争いが起き、ヨハネス6世カンタクゼノスは娘テオドラをオルハンに嫁がせた上で同盟を結びます。
微:沖縄を差し出して日米という敵国同士が同盟を結ぶ展開だな。
苦:はい、オスマン陣営はビザンツ側の招きでバルカン半島のトラキアに進出しました。
微:桂馬を生かすために飛車を差し出すヘボ将棋のような・・・。
苦:この馬鹿としか言いようのない近視眼的同盟の結果、バルカン側でもアナトリアでもオスマン帝国の支配地が拡大します。そしてこのオルハンの後継者がスルタンを名乗るムラト1世です。
微:白人と黒人のミックス第一号か?
苦:それは新大陸です。ムラト1世は即位してすぐにアドリアノープルを占領、デウシルメと呼ばれるキリスト教徒子弟の強制徴発制度を始めます。その成果が歩兵軍イェニチェリ創設です。
微:それで観光客を呼び込もうとしたんだな。
苦:それは今のトルコだよ! 「新兵軍団」の意味で、当初はキリスト教徒の戦争捕虜からなる奴隷歩兵軍でした。支配下のキリスト教徒が増えると、その子弟から徴発・育成するようになります。
微:「取る漁業から育てる漁業」だな。近大も一枚噛んでいたのか?
苦:それが15世紀に領内のキリスト教徒の子弟から優秀な青少年を徴集するデウシルメ制度が導入され、その歩兵版がイェニチェリです。
微:イスラーム歩兵業界のAKBと呼ばれたそうです。
苦:微妙に近いものがあります。主力のトルコ系軽騎兵とは別系統、つまりスルタンの直属兵力として創設されました。
微:欅坂、日向坂だな。
苦:まず、若者をイスラーム教に改宗させてムスリムの農民家庭に配置し、農業労働に従事させるとともにトルコ語を習得させました。
微:歩兵実習生という名目の農業奴隷やないか。今の日本の原点。
苦:次にアジェミー・オウランと呼ばれる「見習い身分」に取り立てられ、首都などに兵営を持つ新兵軍団に配属されました。
微:昭和の「スクールメイツ」、バックダンサーから下積みを始めたんだな。
苦:40歳以下置いてきぼりですね。ついでイェニチェリの増員・欠員補充の必要性に応じて軍団に編入されました。
微:このあたりはモーニング娘。的だな。
苦:イェニチェリは原則的に首都イスタンブルにある兵営に住まわされ、妻帯も禁じられました。しかし同時に高い俸給を与えられ、免税や年金など様々な特権がありました。
微:イェニチェリ専用喫茶店もあったな。で、万引きでメンバー追放されると。
苦:加護かよ!! オスマン帝国ではティマール制でトルコ人騎兵は、その装備を維持できるイクターの束を認められ、世襲されました。恐ろしいことに不要化した騎兵は軍役を果たさなくなります。
微:ただの年金じゃねえかよ。納税通知書がそのまま年金手帳になったわけか。
苦:そうです。消えた年金ならぬ「消えた軍役」で、これではスルタンがイェニチェリに頼るのももっともです。そして16世紀に銃が導入されると、その軍事的重要性は増していきました。
微:鋼鉄製の甲冑は支給されず、城攻めの時には死んだらその死体で堀を埋めたんだろ。
苦:しかも帝国内各地にイェニチェリ軍団は配備されるようになります。
微:NGT、NMB、JKL方式だな。どんどん増殖するところも恋愛禁止も同じ。
苦:19世紀にムハンマド=アリーによるエジプト平定に最も抵抗したのもイェニチェリでした。
微:EGTだな。「♪振ればカイロは温まる」なんてご当地ソングまであったそうです。
苦:「待てば海路の日和あり」だろ! でも、エジプトで19世紀にイェニチェリがいたのも、18世紀からトルコ系志願者が主力になり、結果、結婚も世襲もありになったからです。
微:大卒であることを隠して高卒枠で採用試験を受けた公務員みたいだな。というかイクター制が定着すると、ほぼ世襲化と既得権化が間違いない。
苦:日本では国会議員がそうですから。無能で専横というか横暴なのまで同じ。
微:まあ、興奮しないで。ムラト1世に戻ろうぜ。
苦:はい。ムラト1世は1371年、マリツァ川の戦いでセルビア諸侯軍を撃破します。ビザンツ帝国もオスマン帝国への臣従を余儀なくされ、1387年にはテッサロニキも陥落しました。
微:これが聖デメトリオスがセルビアの守護聖人になった伝説の始まりだな。
苦:はい、根津先生の議論ですね。ムラト1世は1389年にコソヴォの戦いでバルカン諸国・諸侯連合軍も撃破しました。しかし、遠征中にセルビア人貴族に暗殺されます。
微:この緊急事態に飲食業の営業時間短縮を呼びかけたんだな。
苦:2021年の日本じゃねえよ! 息子のバヤジット1世が戦場で即位し、勝利を決定的なものとしました。なお、スルタンによる兄弟殺しもこれから始まり、慣例となります。
微:まあ、ハーレムで数え切れないくらい直系の子孫残せるしな。多すぎても困るだろうけど。
苦:さらにバヤジット1世は1396年には皇帝ジギスムント率いるヨーロッパ諸侯軍をニコポリスで破り、ペロポネソス半島からバルカン全域がオスマン帝国支配下に入りました。
微:で、絶頂の時、東からやってきたティムールにアンカラで捕虜にされて、そのまま死ぬと。
苦:この1402年のアンカラの戦いでオスマン帝国は1413年までスルタン空位状態となり、さらにはアナトリアを含むオスマン帝国領がティムールの手中に収まることになりました。
微:「マジかよ!!」とティムールもびびったそうです。
苦:バヤジットの子メフメト1世がようやく1412年に帝国の再統合に成功し、次のムラト2世がバルカンを安定させます。それでもコンスタンティノープルは征服できませんでした。
微:それでテオドシウスの城壁を「嘆きの壁」と呼ぶようになったそうです。
苦:イェルサレムだよ! 包囲されたビザンツ皇帝ヨハネス8世パレオロゴスは西ヨーロッパからの支援を受けるために1438年から1439年にかけてフィレンツェ公会議に出席します。
微:呼びつける側ではなくなったところに「落日」感があるな。しかも無観客だったそうです。
苦:最初から関係者しかいねえよ!! ヨハネス8世は苦渋の決断で東西教会の合同決議に署名しますが、期待した西ヨーロッパからの援軍は来ませんでした。
微:代わりにサバクトビバッタの大群が何万匹と飛来したそうです。
苦:それも2020年の話だよ! ビザンツ帝国最後の皇帝となるのがコンスタンティノス11世パレオロゴスです。
微:ロムスに始まってロムルスに終わる、コンスタンティヌスに始まってコンスタンティノスに終わると、よくできているな。
苦:コンスタンティノス11世は1445~1446年に一時的に勢力を回復、ペロポネソス半島などを取り戻しますが、これがオスマン帝国の反撃を呼び、ペロポネソス半島を再占領されました。
微:「倍返しだ!」って叫びながら取締役会議に乱入したそうです。
苦:「あの町が欲しい」と言ったメフメト2世は1453年にコンスタンティノープルを包囲、陸越えで金角湾に戦艦を流し込む奇策、イェニチェリ軍団、最新式の大砲で遂に攻略します。
微:流しそうめんをヒントに「戦艦を流し込み」を思いついたそうです。
苦:水は使っていません。陥落したコンスタンティノープルでは略奪の後、市内へ入ったメフメト2世はコンスタンティノープル市民を臣民として保護すること、教会の存続を宣言します。
微:殺すのが面倒だったんだろ。「征服王」になれたし。
苦:これはローマ皇帝権をオスマン帝国スルタンが継承したことを意味します。つまり正教世界への介入の口実になり、イスラーム世界帝国ながらヨーロッパへの進出も開始するのです。
微:それでトランシルヴァニアやワラキア、ベッサラビアに口出しするのか。
苦:そして1460年に残存勢力のミストラが陥落してパレオゴロス系モレア専制公国が滅び、ギリシア全土がオスマン帝国領となりました。
微:雉も鳴かずば打たれまいに、だな。
苦:1461年には黒海南岸のトレビゾンド帝国を征服し、ビザンツ帝国残党は全て消滅しました。メフメト2世はガリポリを中心にオスマン海軍を増強し、イスタンブルにも造船所を築きます。
微:それでスボスやサモスといったジェノヴァ支配下のエーゲ海の島々は次々と陥落したのか。
苦:1512年に即位したセリム1世は東部アナトリアではサファヴィー朝の侵攻を撃退します。1517年にはエジプトのマムルーク朝を滅ぼしましたが、統治できる状態にはなりませんでした。
微:イェニチェリがもっとヤバい奴になりそうだな。カイロの迷路のようなスークに潜んで。
苦:マムルーク朝の持っていたイスラム教の二大聖地メッカとメディナの保護権を掌握してスンナ派イスラム世界の盟主の地位を獲得します。
微:この時にスルタンがカリフを兼ねると宣言したそうです。
苦:それは20世紀初めの捏造された神話です。1924年のカリフ制廃止宣言を導いた程度です。
微:いや、日本でも「私は立法府の長です」と国会で答弁したバカな首相がいたから。