凡人性
No. 1にならなくてもいい
もともと特別なオンリーワン
昔、煌めいていたアイドルは、
そう言っていたけれど、
みんなそれぞれに特別だなんて
Nizi Proのプロデューサーは言っていたけれど特別さを必ず見つける必要なんてあるのだろうか、とふと思ってしまった午前2時。
踏切に望遠鏡担いでいく時間だね。
そしたらふと、頭の中に
凡人性
凡人力
という言葉が浮かんだ。
一応誰かがこんな言葉、本の題名にしてそうだからしらべてみたらやっぱりヒットした。
石橋秀樹氏が『凡人力』という本を出しているらしい。
けれど私はどちらかというと凡人力という意味合いを含んだ上での
凡人性
という言葉の方がしっくりきたというか
最初に浮かんだ言葉がこちらだったから
「凡人性」という言葉で語っていく。
私は、社会人として、
そしてこの現代を楽に生きていくために
必要なものはこの「凡人性」なのではないかと真夜中に思ったのだ。
「凡人」という言葉を調べると
優れた性質や変わった性質を持たない人間のこと。
という意味がでてくる。
日本では「出る杭は打たれる」ということが昔からあり、処世術として凡人であること、凡人として振る舞うことが処世術として挙げられていたらしい。確かに出る杭は打たれる日本だけれど、最近はむしろやたら個性、それも他人と比較した時にNo.1とは言わずとも優れた特徴を持っていることが礼賛されるきらいがある感覚を私はもつ。そしてそれをオンリーワンであることとして認め、そのオンリーワンを称賛し、その才能を伸ばしていこうと。
Nizi ProとThe FIRSTは旗揚げ人もコンセプトも対象も、評価の仕方も何もかもが違うから比較することはできなくて、評価の仕方という意味において、最後に日高さんは順位をつけなかったからその点、視聴者投票があったり、1位から順に発表され、NiziUとは全く異なるしそもそも評価基準が違うから同じ天秤にかけることはできないのだけれど、オンリーワンを見つけ出し伸ばそうとした点、基本的な評価者がParkさん、日高さんというプロデューサーだった点においては似ている。
個性を尊重し、押し上げ、伸ばそうとしていたのだろう。THE FIRSTの場合、だんだんと参加者が作り上げていく部分(ダンス、歌、割り振り)が増えていて、その点参加者があのオーディションをつくりあげた部分が大きいけれど、どちらにせよ
「日本にまだ埋もれている才能を発掘し磨き、育て上げる」という観点から見れば彼らは最初から中に光るものを秘めたとわかられている原石であった。
つまり、凡人ではなかった。
たぶん、凡人すぎる人は通らなかったから。
一人一人が特別な才能を持っている、
なんて言葉、社会が低迷している時、自分自身が落ち込んで立ち直れない時には強く強く背中を押す言葉になるかもしれないけれど、そして「あなたが才能を発揮できていないのは才能を発揮する場所にいないから」と言った言葉は慰めにはなるけれど、
本当にそんなに個々人に
デビューした彼ら、あのオーディション、Nizi ProjectにしろTHE FIRSTにしろを受けて通ってきた、最後のメンバーまでいかなくともかなりいいところまでいった彼ら彼女らと同じように素敵な原石ばかりだろうかと考え込んでしまう。
彼らは結局のところ隠ではなく陽にいて
人を照らす、明るくするような存在で、
歌にしろダンスにしろ人間性にしろ
才能を持っていて、または努力を怠らないという才能をもっていて、努力家で、そして努力の結果に、実を結ばせた。わかりやすいシンデレラストーリーもあった。
Nizi Projectが行われてNiziUが誕生し、翌年になって今度はTHE FIRSTが行われてBE FIRSTが誕生する間、私は何が変わったというのか。私は何か特別性を社会に提示しただろうか。振り返っても何一つ出てこない。
社会的に何かができたわけでもない、
正直、彼らのような光る原石もなければそれを磨く努力も持ち合わせていない。強い意志ももう消えてしまったし、周りを明るくしたいなんて崇高な理想は掲げられなくてむしろ、彼ら彼女らから元気をもらってやっと毎日を「今日も少し生きてみようか」と「今日は楽しかった」と思えるだけの人間である。
そう思った時に、彼ら「特別な、選ばれた人間」の対極を表す言葉があるのなら「凡人」となるのだろうけれど、私はその「凡人」としての力も持ち合わせていないのだと改めて悟った。
改めてと書いたが、そう、これは、
今気づいた話ではない。前々から、いや昔からなんとなくわかっていた。そしてその
「凡人」いや「フツウ」とでも書いておこうか、「フツウ」になれなくて困惑し、疲弊し、自分が嫌になり、親や周りにもたくさん叱られた。
彼らのような光る存在が照らすのが、「一般人」(凡人)がいわゆる芸能人ではない、日々、会社で働き疲れ切った、学校に通うような“その他大勢"という「我ら」という対象なのだとしたら、私はその「我ら」の「一般人」の常識の生き方すらできていない。
だって、28歳にもなるのに自立どころか親の庇護がなければ死んでしまうような働き方しかできていないし、まともにご飯すら食べてないし、まともな生活も送れていない。みんながどうやって「フツウ」に「シャカイジン」として生きているのか、働き続けられるのか私には全然理解ができない。アタマでもわからないけど、カラダでもわからない。
「凡人」以下である。
だから、私はまずその「凡人」を目指せと言われる。凡人は私にとって素晴らしい生き方であり、私にはなかなか届かない目標である。特別、社会的にヒカリとされる光る才能を持っていないように扱われるその他大勢の人々は、私にとって確かに既に届かない存在なのだ。一人ひとりがというより、むしろ彼らまとめて。
そういう考えと立場に立った場合、
オンリーワンだとか
もともとみんな光る才能をもっていて原石なのだとか
言われる皆は確かに「(優れた才能を持たない)凡人」ではない。
凡人ではなく、オンリーワンなのだろう。でも、近年のオーディションを見ていると結局のところ、合格者と不合格者がいて、そこには何かしらの才能や努力やその人が積み重ねてきた人生からくる人柄の差があって決してそれは「凡人」なのではなく、何処かのある一定のレベルまで受かった人は「ダイヤモンドかエメラルドかサファイアか知らないけど何かしらの原石」で全く歯が立たなかったような人たちは「どこまで磨いても今のところ変わらない石」と評価されているではないかと思ってしまった。それはじゃあ、石としてのオンリーワンではなかったということか。光っていなかったから。
受かった彼らが原石だとして、
一般庶民の我らが凡人だとして、
でもその凡人と一括りにされる我らの
社会の中で(つまり光を与えるとされる芸能界と比較しての一般庶民の社会の中で)
その"大衆"である凡人と同じ生き方すらできない私は何なのだろう。
今に始まった話ではない。小さい頃から周りと馴染めなかった。馴染めなかったという言い方は少し不適切だ。馴染めなかったのではない。ついていけなかった。いや、こういう場合どういう単語を用いるべかなのだろう。
周りと"同じように同じペースで同じことを"できなかった。団体行動をきちんとしようと意識していてもついていけなかった。団体行動は苦手な意識があったり、「団体行動したくない」なんて思っていたわけじゃない。私はただただ、ペースにいつもついていけなくて落ちこぼれていた。そう、それだけ。
だから、小さい時から
「なんで周りの子みたいにできないの」
と叱られてきたし
「特別なことなんてできなくていいからフツウに生きてくれ」と頼まれるように幾度となく言われてきたのだろう。けれど私は大人になっても結局その、周りと同じように生きる凡人力はつかなかった。
当たり前に大学であまり苦なく生活を送り、当たり前に卒業し、当たり前に働くそれが私にとって本当に困難だった。大学以前も。幼稚園の給食や絵画の時間などの団体行動の時間規則にも、小学校の算数のおはじきにも、中学のHRに間に合う、忘れ物をしない生活も、高校の先生が一度説明したらスッと理解してパソコンを扱える能力も、大学ですっと周りや大学生活に馴染んで楽しむ余裕も、何もかも人より時間が何倍もかかって周りの人にたくさん助けてもらって「本当にこんなこともできなくて…」と呆れられながら手伝ってもらってなんとか大学院まで修了した。
もちろん、歳を重ねるにつれ、昔の自分よりできることは増えてきたけれど、周りは周りで同じようにスイスイもっとたくさん身につけて生きていくから私は何年経っても周りの友人が苦なくスッとできることをできない。
当たり前にシャカイジン生活を送り、稼ぎ、生計を立てることすら結局できていない。
昔からなんとなく抱えていた違和感がやっと言葉になってきた。No.1にならなくていい、オンリーワンだから、なんて言われたってそもそもNo.1になるからこそOnjy1になれる部分があるじゃないの、とも思っていたけれど、それとは別に、Only1の前に私は、比べるくらべないの世界線つまり、比較し競争しあうレベルにまで周りに追いつかないとそんな話にならないのだよと感じていた。
そんな私は昔から思っていたが、このNizi ProとTHE FIRSTをみていて、やはりオンリーワンになるためには、絶え間ない努力とその努力の結果がきちんとついてくるだけの何かしらの才能を持っている必要があるじゃないかと感じた。
Nizi Projectで未経験だったアヤカさんは、類稀なる美貌と彼女の16〜17年間の軌跡を積んだ結果の可愛らしい個性と負けず嫌いという才能を持ち合わせていたし、THE FIRSTのジュノンくんは歌もダンスも未経験とは思えない才能を持ち合わせていた。レイコくんも、未経験とはいえ類い稀なる綺麗な歌声の持ち主だったし、ダンスの吸収もすごくて、努力すればそうできるだけの才能を持っていた。
もちろん物覚えの悪い私の努力不足というのはあるだろうが私が同じように未経験で彼らと同じ位置までいったとして、彼らのようにすぐに吸収する才能や能力は持ち合わせていない。私は吸収に甚大な時間を要する。
昔から、何をやっても「凡人」である友人たちの2倍も3倍も時間と労力を要した。昔noteの記事にも書いたが、小さい頃は夜ご飯を食べるのに2時間も3時間もかかっていたし、30分かかっても食パン半枚すら食べきれない子だった。
絶え間なく勉強してもおはじきがわからなかったし、塾の算数の宿題も理解できなくて毎晩夜中まで起きて勉強していた。ずっと真面目に授業を受けているのに、数学や理科も理解できなくて図形で0点をとったり、音楽で学年最低点をとったり、世界史も赤点レベルだった。
周りの友人たちと同じように進むためには本当に絶え間ない、文字通り寝食惜しんで絶え間なく努力して勉強し続けなければならないほど何もできない人間だった。だった、と書いたが今だってそう。ただ、昔からできない人間だったからその意識で昔から人より先に、自分ができない分きちんと先にやっておこうという意識が、20年以上の社会生活の中である程度確立されたのと、「何事においても人より劣っているから」という認識が自分の中できちんと一定程度認識があるだけのこと。
私からしたら友人たち「凡人」であるために、「凡人力」が必要なのだ。
最近は、やたら「秘めた才能」がメディアに取り上げられることが多く、また
社会的にも「誰しも何かしら特別だ」というのが定説だけれど、本当にそんなにみんな特別なのだろうか、または、“特別"である必要があるのだろうか、と疑問だ。
最近のこうしたオーディションでは
「私たちは皆」という主語を用いて
「特別だ」というけれど、個々の
「存在の特別性」をそんなに主張する必要があるのだろうか、そしてまた、ここが特別であるといいつつの、結局のところ、天賦の顔や才能、努力により培われた能力である基準(それも主催者)から「評価される」という形は、それを見る私に「この子達は私とは違う特別な才能と能力を持つ子たちなのだ」と突きつけた。
そしてその突きつけは、普段から「友人たち(芸能人との対比という意味での一般人)とは異なるんだ、友人たちのようには生きられないのだ」とかなりの劣等感を抱き続け、「能力なし、努力不足」を貼り続けられて必死にもがいても結局、周りの友人がなんの苦もなさそうに当たり前に受容できている「自立への道」「社会人になっていく道」を通ることができていない私に「凡人未満」という言葉を認識させた。
オンリーワンになるためには、ある程度のレベルに到達していないといけない。オンリーワンになるためには、ナンバーワンを目指すような努力を持続しなければならない。
ナンバーワンになるためには、一定程度の常識的社会生活や周りの人と同じことはできている必要もある。
そうしたことがなしにオンリーワンに、突出できるのは、エジソンとかダヴィンチとかアインシュタインのように、何かしらに突出した才能を持ち合わせる人であって、結局そうした何かのない私は、特別な才能を持つ人間にも凡人にもなれない。
そういう私には、オンリーワンを推されるこの世の中でも、そもそもその凡人性とやらをきちんと持ち合わせている、友人たちに代表するこの社会のその他大勢の、きちんと生きている大衆の方々が素晴らしくて追いつけなくて苦しくなるのだ。
だから私は、凡人であることは
素晴らしいと思うのだ。私は凡人にすらなれないのだから。オンリーワンなんて探さなくても、見つからなくても、特別な長所を誰もが持ってると言われて探したのに分からなかったとしても、凡人性を持ち合わせているのならそれが才能だと、私は感じる。私にはないものだから。
そう感じた時、やたら
「個々は特別」「それぞれが特別な才能がある」ことをおす世の中の提言は何か違うのではと思えた。別に、才能なんて、自分に合うものや特別な能力なんて探しにいかなくても、見つからなくても、凡人性があるのならそれで十分だと、凡人性を持ち合わせているのはこの世を生きる強い能力だと私は思うのだ。自分が持ち合わせていないから、
最後に、THE FIRSTで取材陣が追っかけ始めたところからはずっと観ていたよ。デビューメンバーにならなくともテレビに映し出された審査のところまで残っていた人たちも本当にすごかったよ。そして、THE FIRSTは間違いなく新しい風を吹かせたと思う。日本では原石が鉱山にあるままでそれを誰も見つけないと韓国とか世界に才能が流出して日本から誕生する機会が少ないという危機感のもと旗揚げし、自ら会社を起こし、出資してこんなに大きなことをやり遂げ、作り出した日高さん、この審査を受けBE FIRSTのメンバーになったみんな、ソロ契約したメンバー、練習生になった2人、これからの皆の活躍が楽しみだし、それ以外のテレビには映らなかったこのオーディションに参加した「その他大勢」のみんなの人生も、大きく変わったと思う。それからただの視聴者だった「さらにその他大勢」の私の人生も少しは変わったから。だって、もともとAAAはわりと好きだったしNissy好きだからSKY-HIも知ってたし聴いてたけど、ずっと彼らボーイズを追いかけるようになっちゃったしさ。
特別な何かが光るとき、それが才能として扱われ、光らなければただの石として、それは原石としての認識もされずにいるのだろうけれど、彼らのような陽の光を浴びる、人目にあたるようなことでなくても、仮にあなたが何か周りより少し秀でたものを持っているのなら、何かコツコツ頑張れていることがあるのならそれは既に素晴らしいと思うしそうしたものがなかったとしても、周りに、社会に、なじめている、ついていけているのなら私にとってあなたはそれだけですごい人だと思うんだよ。
私は本当にそういうものが何も思い付かないくらい何もないから。。
客観的に見た時のずば抜けた特別性なんてなくても、ね。
だからなんていうのかな、別にそんなに特別性を押し出して見つけ出そうなんて世の中だけじゃなくていいじゃんって思うんだよね、もちろん才能ある人にはもっとスポットライト当たって輝いてほしいと思うけれど、凡人であることもそれだけですごいってもっとそういう認識の上で特別性が語られてほしい。そうじゃないと、凡人にすらなれない私はなんだか、とってもなんにできないって突きつけられてるもの。
それからやっぱり、オンリーワンである人ってNo.1くらい努力しているんだと思う。BE FIRSTのソウタくん見ていてやっぱりそうよね、と思ったよ。
もっと凡人性って、悪い意味ではなくて良い意味で捉えられるべきなんじゃないかしら。そう言ってくれないと凡人にすらなれない私、すごくダメって言われてるみたいだもの。
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