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“主人公”にはなれなくても


以前、Twitterにこんな投稿があった。




ふと思う。

命があって、意識があって、
自我があるのなら、


誰もが、本来
自分の人生の主人公なのである、と。


ただ、実は無意識なくらい
人に流される人だとか

ヒーローになりたい、
もっと自分はうまく生きられるはずだったのに、

と理想を抱えているから

「主人公になりたかった」と
口に出るのであろう。




私は、それと同時に、
「私たちはそれぞれ、
人生の主人公なのだ」という話を
目にした時、耳にした時抱くのだ。
違和感を。


その違和感の時、

最初に浮かぶのは、村上春樹の
『アンダーグラウンド』の
「目じるしのない悪夢」の言葉。




実は、中高生の時に、
村上春樹の『海辺のカフカ』を
読んだ以外村上春樹の小説は読んだことがなく、また、『海辺のカフカ』も
図書館みたいなところがでてきたような気もしなくもない、程度の記憶で、
村上春樹に関しては、小説より
この、『アンダーグラウンド』の方が記憶にある。


彼は地下鉄サリン事件の彼ら、
その報道、報道を見た我々を対比させ

「"彼ら"(オウム信者)の鏡写しでしかない我ら」の存在を明示した。



また、同じことを、
Don DeLilloのFalling Man
(9.11を題材にした小説)でも思う。



果たして、我々が、
自分の意思で歩んでいると
思っているこの我の人生は、


主人公になりたいというのは、
先の投稿のとおり、
「スーパーヒーロー」という主人公を
思い描いているだけなのだ。




そして、その、
「スーパーヒーロー」になれない自分の
現実を受け入れられず、
現実との乖離をみて
「理想の主人公になれていない自分」を
発見し、
「主人公になりたい」という言葉が出てくるのだろう。


確かに、我々は、
「個人の物語」という人生を生きる
主人公である。


しかし、その前に、
そもそも、我々は、

「社会が、多くの個々人の人間により
構成されているもの」であることを
きちんと理解し、

「自分の人生の主人公」であること同時に、いやその前に
「誰かの人生においては主人公ではない」ことを、認識する必要があるのではなかろうか。


また、上記の通り、

自分の人生において、
その主人公は、様々なことに挑戦し
壁を乗り越え、人生を切り拓いてゆける勇者であるはず、という期待を崩さねばならないのではないだろうか。

しかし、自分自身に絶望しながら、
それでも淡い期待を抱いてしまう私でも、それが容易でないことは、わかる。


私だって、その要素がない、
わけではないから。




こういう価値観、
人生の主人公になりたい、
ヒーローになりたい、というのを、
ヒロイズム(heroism)というだろう。


英雄的行為を愛し、
英雄を崇拝しているから生まれる。


ここでは
英雄的物語の主人公のことを、
“主人公”としよう。


 自分に期待してしまうと、
「頑張ったら英雄になれるはず」
「私はもっとできるはず」
「私はきっとやれるはず」
「きっと幸せになれるはず」
と、良い方に考えたくなる。


 それ自体は良いことだろうけれど
理想と現実が乖離すればするほど、
“主人公”であるはずの自分が歩む
現実の物語はちんけなものに見える。


 ことわっておくが、
自分に期待することが悪いことではない。むしろ、心が想像できることしか現実化しないのなら、期待や想像はとびきりした方がいい。

 人は想像できないことは、
現実化できないらしい。




 多分、問題は、その、

 欠陥のない理想というきれいな輪は理想と現実の自分の乖離が見えるたびに、理想が1つでも欠陥が出ると、
きれいな輪でなくなること、
そして、そういう"出来ない自分"に
落ち込むこと。



 完璧は脆い


  村上春樹は、
『アンダーグラウンド』の
「目じるしのない悪夢」に

マスメディアのつくりあげた構造は
正義と悪、正気と狂気、
健常と奇形の明白な対立で
人々は異様な事件へのショックから
多かれ少なかれ、メディアのつくり
だした「正義」「正気」「健常」
の側の大きな乗合馬車に乗り込んだ、

マスメディアの基本構造は、
被害者=無垢なるもの=正義のこちら側と、加害者=汚れたもの=悪のあちら側

を対立させることで“こちら側”の
ポジションを前提条件として固定し
“あちら側”の論理の歪みと行為を
徹底的に細分化・分析することだった

と述べている。


 そして、彼らを意識的に輪から排除せねばならないほど、
結局のところ、言葉にのせられ、信じこんでいた信者の彼らと、マスメディアという乗合馬車にゆらゆらゆれる我々は、犯罪を犯したか犯していないかという決定的な違いの壁はありながらも、その民衆の思考構造は、
鏡像のようになっている。


と主張されている。



 “私たち”は“彼ら”を奇形、異常とし、社会から排除しようとした。
 しかし、彼らという構成員が欠けた社会の輪は実のところ欠損するだけで

オウムでなくとも、犯罪者でなくてもこうして、我らと彼らに分けて、
彼らを排除してゆけば、
社会の円は穴だらけになる。

そして、私たちは、無意識のうちに
無思考になっていることにすら、
気づかない。


私たちは、自分自身の物語を、
主人公として生きている、と
思い込んでいる。

しかし、麻原に自分の思考を委ねてしまった信者のように、

オウムを叩くように我らと彼らの対立構造を生み出したメディアの乗合馬車に乗っかった無思考の“我ら”は、
信者と同様、自らの物語を、
メディアに明け渡してしまったのだ、


 確か、そんなことを指摘していた。


私は、いつからか、ふと
上記のようなツイートの言葉を見ると
モヤっとしたものが心でドロドロと広がってゆくのを感じていた。

私はもっと輝けるはず、
だとか、

私たちは、それぞれ主人公なのです!

なんて平気で主張する
その言葉を見る度、

"まあ、他人の人生からみたら端役だけどね"と思ったし、


そんな意見を聞かなくとも、
人と関わる時にこの意識が強い。
(もっとも、こんな人生の端役だ、
なんて壮大な言葉として頭に
明示されるわけではないけれど、
なんとなく、私という人間は、
この世界の、たった一瞬の
たった一部、みたいな感覚がある。)


だから、時に、昔は
生きている意味だとかを
考える時はあったけれど、

いちいち「生きている意味」だなんて
考える、近代の
ブルジョワ思考はやめた。

ヒーロー的人生を
送っていない怠惰なままでも、
生きている、その事実でいい。


よく生きる、とか
自分のベルーフを探す

というのは、大事な感覚かもしれない
けれど、とりあえずそういうのは、
何も考えず、
自分が楽に生きられるようになって
余裕をもててやっと考えられたり、
必死に生きているうちに、
実はこれなんだろうとわかったり、
そんなものかもしれない。


 私たちは、
確かに自分の人生の主人公である。

 と同時に、
関わり合う他者の人生という物語の
共演者であり、エキストラでもある。


 多分、自分自身に
大それた物語がない、ということに
終始しすぎると、
 大きな物語を提供する人のそれに
乗っかってしまうのかもしれない。


 けれど、

 自分の人生の主役であり、同時に
他者の人生の共演者で、端役でもある、

という認識をすると、

 自らの人生の見え方も、
他者との関わり方も、
全く変わって見えるのでは
ないだろうか。


 自らの視点で求める、
ヒーロー的な物語の“主人公”ではなくとも、
 誰かの物語の、一登場人物である、
という認識は何かを変えるかもしれない。


 少なくとも私は、
私の人生がどう、ということを
最近はあまり考えない。

 一方で時折、
 
 こうした、

私たちは皆人生の主役なのだから!


などという言葉をみるたびに、


 まあ、誰かの人生にとっては端役か

もしくは、見知らぬ、
生きている間に一度も出会わない誰かにとっては、
通りすがりの通行人役としてすら、
出てこない人間だけれどね、

なんて意地悪く、頭の片隅で
突っ込んでしまう。




 この世界で
私は私の物語を生きている、
"つもり''だし、物語を生きようなんて
思わなくても、時は進むけれど、

みんなそれぞれに、物語があって
たまたますれ違ったり交わったり
出会ったり去ったりしながら

 自分の人生では主役に、

 誰かの人生ではメインキャストに

 また別の誰かの人生ではサブに

 他の人生では端役に

 さらに別の人の一生では
キャスティングもされずに、


 そういう存在で生きているのだ、


という感覚を私は持っていた。


 最初のツイートには、
続きがある。



ー 主人公というのは「主人公になりたい」的な葛藤とは無縁の人のことをいうんですよ ー


 ヒロイズムを強く持ちすぎず、
完璧な自分を描きすぎず、
ゆったりと生きられる人が、
結果として主人公っぽい人生を
送っていたりする、そんなことかな。



 私たちは、間違いなく、
どんな人も自分の人生の主人公で、
誰かと関わっている限り、
誰かの人生の共演者。


 その、"ゆったり"さは、
自分の人生の主人公であるという認識と同時に、
誰かの人生の端役である、という認識を持ち合わせていることでだんだんと
形成されてゆくのではなかろうか。

#主人公にはなれなくても

#ヒロイズム

#村上春樹のアンダーグラウンド


 今回は、書きたいことを
うまくまとめられなかったので、
徒然なるままに勢いで書きました。

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