見出し画像

部屋にいつか枯山水を



 近所のドトールに久しぶりに入った。
机に座ってずっとスマホや手帳と向き合って下を向いていた顔を、ふとあげたら、ロックバランシングの絵画が目の前に飾ってあった。


 誰の、なんという絵なのか知りたくて調べたけれど、この絵の下に薄く書いてあった英語が薄くて「La なんとか」って読めなくて、調べきれなかった。どなたかご存知だったら、これがどなたのなんという作品か教えていただきたい。


 とにかく、この絵が、不意に視界に入ってきて、


あ、 


と思ったのだ。


石積み、ロックバランシングアート、なんて、
誰が考えたのだろう。


でも、時折見かける、石積みのあの絶妙なバランスは、心に何か、突き刺してくる。

少し手が触れれば、少しずれたら、崩れてしまう絶妙なバランスで、時には豆粒みたいに小さな石の上に大きな石が重ねられていて、それらは、本当に絶妙な、バランスを保っているのだ。


そして、その、絶妙なバランスで形づくられた石の塔は、それそのものだけでなく、周りの風景や背景の自然と馴染むことで一層、際立って美しく感じる。


自然だけで自然の中に人為的に造られた塔は、
少し触れたら崩れてしまう、積み方を変えたらもしかしたら崩れてしまう、全く同じ石がないから同じ積み方がない、同じ光景はどこにもない、

そして、少し触れたら崩れてしまうその、
唯一のバランスが


その、唯一無二感が、何か心に突き刺してくるのかもしれない。


 さらに私は、石積みアートに、
好きな、日本庭園の枯山水と同じような、

書院の柱や天井を含めた「枠」の向こうに見える砂を海、石を滝に見立てて、そこには水がないのに、水を感じるあの、枯山水の絶妙な配置が私の耳に響く、滝や河の流れの音を、感じる気がした。


ロックバランシングは、下から上に積み上げることで、高さのある立体的な作品で、中には敷き詰められたものもあるが、
私はどちらかといえば、

だだっ広い自然の川のなかに、ぽつんとそこだけ、石が人為的に積み上げられているようなものが好きだ。


それは、枯山水の、奥行きがあって、
空白がある、その、空白美、
「間」や「余白」の美学のようなものを
美しいと感じるからなのだろう。

そういえば昔、少しだけめくったことのある、いやもしかしたら大学受験の現代文の問題の一部にあったのかもしれない、
九鬼周造氏の『「いき」の構造』にも、そんなことが書いてあった気がする。


ロックバランシングはけれど、枯山水とは全く異なるのだろう。枯山水は、人為的にしかしあくまで「自然の風景」を表現している。石という材料だけで、そこに存在しない川や、せせらぎや音が聞こえてくる、見えてくる。一方、ロックバランシングは、その自然には積み上がらない石が人間の知によって絶妙なバランスで人為的に積み上げられた「造られた光景」という感じがする。


どちらも好きだけれど、枯山水を実際に見た時や枯山水の写真を見た時に私の心に広がる空間や、自然にそうであったように思う感覚はロックバランシングにはないし、ロックバランシングの絵や写真(実際に積み上げられた石を見たことはないから)を見た時にその奥に感じる製作者の存在を強く枯山水に感じることもない。


私は、残念ながら枯山水に関してもロックバランシングに関しても、また日本文化についても石の歴史に関しても、全くの門外漢だからこれ以上語ることはできないのだけれど、


とにかく、枯山水とロックバランシングは
異なる様相で、しかし、「石」という存在は
私の心や感覚、脳内に、何かを膨らませるらしい。


石が好きだなんて考えたことがないけれど、

石と、石の向こうに広がる、"石の背景"としてみる、その石を含めた光景(作品)を、私は結構好きなのかもしれない。


その昔、高校2年生だった私は、修学旅行で最も楽しみにしていた龍安寺の枯山水を見たあと、お寺で枯山水の写真を切り取ったポストカードのセットを買って帰って部屋に飾った。

残念ながら、その写真を美しく、クリップ止めして部屋に散りばめることはできなかったから、ポストカードはポストカードセットのまま飾ってあるのだけれど、私の部屋のライティングデスクの上には、枯山水がある。


龍安寺の石庭は室町時代後期、経典や水墨画などを具現化するような文化の中で造られたもので、枯山水、なので、山水文化の中でも海、山、島がそこに表現されている。


枯山水がまた、好きなのは、ミロのヴィーナスに通じる美、「不完全な美」が、想像をもたらすからなのかもしれない。


龍安寺の石庭は、15個あるが、どこから見ても一度に14個の石しか見えないようにできているというのは中高生の時に学んだことだ。その、完全の中に潜む不完全が、心をつかむ。


さて、それではロックバランシングは、なぜ時に私の心をふわっとさせたのだろうと考えたら、ロックバランシングの光景の向こうにいつも、見えていない枯山水がよぎっているのかもしれない。

または、枯山水によってもたらされた「石」に対する美しいという感覚が、ロックバランシングを見た時にも影響して、私は石という存在がかなり好きなのかもしれないと、再び考えた。


カフェには、他に花瓶にいけられた花の絵や抽象的な絵が飾ってあったけれど、目の前にあったこの石積みのアートだけが、私の頭にその、枠ごと押し寄せてきた。


私はアートにも文化にも、甚だ疎いのでよくわからないけれど、

石積みには、この絵画のように「枠」感を感じる.一方で、石庭には、それを感じないように思う。


いずれにせよ、こうした自然のものを用いて人為的に生み出された、「風景」が、その時々の私を、ふわっと解き放ってくれる気がして、


いつか、枯山水の庭や、ロックアートを描いたアートを所有したいと感じた。


亡くなった祖父母の家にあった、祖母が描いたというフルーツの絵も本当は欲しかったし、私はアートにも文化にも詳しくはないし、絵も下手だけれど、作品が結構好きなのかもしれない。

12月に星の王子さまミュージアムで買った、星の王子さまのアート作品を、以前に購入したすみっコぐらしのアート作品を、やはりちゃんと部屋に飾りたいな。

絵を置くと、絵を見ると、その壁は、その絵のある空間に、その作品の周りの空白をより際立たせ、部屋の空間性を感じられる気がする。


よくわからないけれど。

なんかそんな感じ。


#アート作品

#石庭

それが好きなのかもしれない。息苦しさから解き放たれる。

ありがとうございます😊サポートしていただいたお金は、勉強のための書籍費、「教育から社会を変える」を実現するための資金に使わせていただきます。