ケーキ屋さんにならなかった私(後編)

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こうして、英米文学科に入学した私は
たまたま見学に行った、
ESSサークルの英米の2女の先輩に
1年生の1年間の履修を
全て組んでもらった。

その先輩が
「後で履修をやめることは
できるから、教職課程履修
しとくといいよ」と

教職課程の科目入りで
履修を組んでくれて

私はそのまま提出した。

 今考えると、この履修が、
私のその後のすべての人生を
変えたといっても過言ではない。



英米文学科の履修と同時に、
教職課程の履修をはじめ

教職課程のなかでも、
教育心理学の授業を、
とても面白いと感じ、

母校の中高が好きだったという理由で

母校の英語の先生になりたいなと
なんとなく思い始めた。

大学1年の終わりから
教員をめざして、
塾講師のアルバイトをはじめた。

塾は土地柄、中学受験の児童が多く、
中高生は大手塾にとられるために
少なくて、また、わたしに
中学受験経験があったのもあり、
英語を教えていたのに直ぐに、
私学、公立中高一貫の中学受験生や
受験を考える小学4~5年生の
担当になった。

教えることはとても楽しかった。

そして、塾で出会った同い年の人が
「大学院に行こうと思っている」

と言っていたのを聞き、

私は初めて大学院という言葉を

身近に触れた。

いろいろと話を聞き、
大学院とはどんなところなのか、
調べた。

ますます関心がわいた。


行きたい。

小学生の時に英語に
関心を持つきっかけになった、
NHKラジオ講座基礎英語の、
あの仕組みを、
自分が経験した
英語との出会いから今までの道を、
検証したい。

そんな気持ちから、
大学院を考え始めた大学2年。

自分の通ってきた
言語習得の道を知りたかった。

さらに言えば、
日本の外国籍児童の日本語教育も、
小学校英語も疑問だらけだったから、

それについて問いを立てて
考察し、第二言語習得の理論や

脳の情報処理の話などを交えて、

模索したかった。

卒論は、バイリンガル
というテーマで、
英語教育のゼミにいながら、
唯一私だけ、
「外国籍児童の日本語教育」
というテーマを選んだ。

英語教育について、
英語の習得や学習について論文を
書かなかったから、

それを書きたかった。

耳から入る英語学習の道を、

音と文字のつながりを、

中学生で初めてアルファベットから
英語を学び始めた時に出会った、

フォニックスのことを、

論文として理論立てて書いて、

願わくば、そのまま
ずっと研究をしていきたい、

そんな思いが芽生えた。


そして大学院修士課程に入った。

修士の2年間では大学院修士課程と、
学部の時に取り切れなかった

教職課程を、科目等履修生として
履修しながら、
週3、ほぼフルタイムで働き、

さらに別に家庭教師も週1でやった。

これが大学院1年の前期。

大学院に入学してから、
先生と今一度、修士論文の方向を
話し合っていると、

先生の論理に導かれて、

興味があるなら博士課程はどう?

修士論文でこれについてこんな風に
かけたら、博士論文を
こういうテーマにしてもいいわね

そんなことを語っていた修士1年。

別の大学で教鞭をとり、
通訳者として活躍する先生とも出会い

興味があるなら

この研究所の研究生とかどう?

そんな話も出た。

1つ上の先輩は、
博士課程進学を目指して
ものすごい量の勉強と、
その上に成立する研究をなさっていた。

さらに
もうひとつ上の博士課程の先輩は
とてつもなく頭が良かった。

今まで「憧れる人物」みたいな枠を

持っていなかった私は、

すっかり、先輩方が「憧れの人」

になった。


結論からいうと、
M1の間は、
別県の研究所の
研究生の話も提案されたけど、
アルバイトと授業で必死だった私は
考えることが出来ず、

それでもM1の間は、指導教授も
私もD進を考えていた。

けれど、研究や大学院とは
全く無関係の、それも、
自分には全く無関係の他人の
人間関係に巻き込まれすぎ、
自分自身でも制御できなかった結果に

私は大学院の2年間、いや、

たった9ヶ月の間に、
2度も過労で脳卒中、
てんかんを起こして倒れて
入院するほど無理をした。

1度目の退院後、

指導教授は、
私にD進を話さなくなった。

2度目の退院後は、3ヶ月後に迫った
修論提出にも関わらず、

英語で提出する修論を、

日本語ですら書き始めてもおらず、

先生に全く途中経過も
見せていなかったので

卒業延長を打診された。


私自身も2度目の入院で、
D進は今は特に絶対に無理だ、

いや、
ましてや修論も書き終わらないのでは

そう思った。


幸い、過労の2度の入院の間に

教育実習を終え、
東京都の教採を終え、
一応「合格」の形をもっていた。


結局その後も、
日本語で修論を
12月に入って書き始め、
修論提出3週間前だというのに、
まだ、英語で1文字も書いていない
どころか、
日本語でも書き終わっていない状態で

家族の予定を断れずに
祖父母の元へ帰省し、

帰ってきたのは1月の三が日後。


そして、私は
東京都教採合格者の名簿登載のための
書類を提出し、

修論を英語で書き始め、

授業がはじまると、

大学院の授業課題、
教職課程の授業課題
教職課程で別に出る課題
英語での修士論文、
大学院の期末レポート
教職課程の期末レポートと期末試験
を全て同時並行でした。

なんとかかんとか、

友人と先輩に修論を
手伝ってもらいながら、

すべての課題を提出し、
試験を受け、

修論最終提出日に論文を提出をして、

2月に口頭試問を通って

無事に修士課程の号と、

英語科教員専修免許をとった。

3月に入って、
公立教員の選考活動をはじめ、
3週間で内定もとった。


3月末ギリギリで職を得た私は、
たまたま、4/1が日曜だったために、
唯一4/1だけ、時間が空いて、

31日に決まった
就職先とこれからの話を

4/1に父親にすることになり、

結局、4/1はそれで終わって
気づけば翌日4/2の4:30に起床して

6時前に家を出て7時に出勤をした。


結局、こんな風にして
就いた聖職に、私は

心の準備ができず、
ついていくことができず、

1度目の入院から感じていた
「時間をとめたい」

「ゆっくり生きたい」

「キツい」

という気持ちに覆われて、

また、仕事を辞めるなら

絶対に生徒に顔を合わせない間に、

と決めていたので、

自分の中でのタイムリミット
3日目の朝まで考えて、

「どう辞めよう」

「どう相談しよう」

しか考えていない自分に、
3日目の朝の、
電車の中で気づいてしまい
そのまま仕事を辞めてきた。

ケーキ屋さんにならなかった私は、
教員になることも無く

研究者になることも無く

今、
無職でアルバイトで生活している。



強い気持ちでなりたいと
思っていなかった教員は、

辞めて2年が経った今になって、

「教員になりたいかな」

そうおもいはじめても、

もう、教員にすらなれなくなった。


ほかの職はなおさら
未経験、年齢、女性であること、
英語力の低さ、能力の低さ等

あらゆる部分が引っかかって

全くかすらない。

そして、面接を
受けては通らない日々を
過ごしているうち、
私、今本当にやりたいことや、
できること、教員なのかな……
教員向いてないし、
能力足りないんじゃないかな……
とすら思うようになった。


実際、何回か転職活動をしたけれど

教育界以外では、
「やりたいこと教育ですよね」といわれ、
学校教員では、
「能力不足、経験不足」で
落とされる日々。


結局、アルバイトを続けているだけの
毎日になってしまった。

ケーキ屋さんになりたかった、

キャリアウーマンになりたかった私は

何にもなれずに27歳を迎えた。

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