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フツウって何ですか?


私の母は、私が幼い時から
毎日のように何かにつけて
「フツウのことだよ」
という。

さっきも言った。


さっきは、マンションの修繕工事で
それが1年かかるという話になった時


「ぇッッ!1年もかかるの」

と驚く私に

「そうだよ、フツウのことじゃん」
と言った。

私はいつも通り不快な気持ちになる。

けれど、理解しないのはわかっているからグッと堪えた。



こんな日常の話だけではない。

「大学を出たらみんな働いてる。
大学院に行く人なんてノーベル賞とかとる頭のいい人で、フツウのことじゃない」


と大学院進学を話した大学3〜4年から
修了してから3年経った今も、かなりの頻度で言われる。


また、そんな私の個人的なことだけでない。


例えばやっと最近になって、
子育てというのは大変だと、
仮に母親側一人に負担がかかっていたりしたらそれは夫婦で協力し、または社会で支え合おうよ、

辛いことは、辛いと言おうよ、
そういう空気にやっと社会がなってきたと思う。


 しかし、そういうことをテレビで、ネットで発信されるのをみると、
子育ての時何が大変なのか、という話が出ると、

「こんなん(1人で育てなきゃいけないとか、父親側が働いて母親側が子供の世話をするとかを)フツウのことじゃんね。今の人たちがわぁわぁ甘えて騒ぎすぎなのよ。昔は、こんなこと当たり前だった」という。


 私はやはり、フツウって何?と思う。


 最近はスルーするようにしているが、昔はいちいち噛み付いたものだ。

今だって、スルーしたって私のなかに
母のこうした言葉と、
それに対する
「フツウって何?」がたまってきて

いっぱいになると、母に思わず
「フツウって何いってんの?
時代も環境も置かれている状況も
全く違うでしょ、お母さんたちが当たり前に我慢していたようなことを我慢するのやめようね、おかしいよね、って話になってきてるんでしょ」と
返すけれど

「甘ったれてんのよ」と吐き捨てる母。




友人にも、


親たちは親たちで、
それが正しいと生きてきたんだ
それを、おかしいとだけ言って吐き捨てるのは可哀想だ、違うんじゃないか、とたしなめられたし、
それは確かにそうなのだ、とわかった。


人間、時代がかわったからといって、
社会が変わったからと言って、
環境が変わったからといって、
自分自身を簡単にアップデートすることができない、

それを思い知る。


 “環境が変われば”

 “もしこうじゃなかったら”を
甘えだと思う私の原理だって、
結局のところこれと同じなのだし、


私は私で27ともなれば、
20代前半の子たちや
10代、小学生たちの価値観や文化は
全く理解できないものになっていて
やっぱり母と同じように
「今の子たちは…」と
思うことだってある。


けれど、それを言葉に出すのと出さないのとは大きな違いがある。



母をこう非難しておいてなんだが、
やはり私だって無意識に、
“フツウさ”と使ってしまう。


しかし、
“フツウ”という言葉を用いる時、
その“フツウ”は、
我の中の“フツウ”であって
万人にとっての“フツウ”でないことを
認識しているか否かの違いは
大きい気がする。


あなたは違うかもしれないけれど、
私は、という意味が本当は込められている。


だって、あなたにとっての“フツウ”は
あなたの価値観や
これまでの生き方から形成されてきたあなたの主観的なものなんだからさ。


普通は、普(あまねく)通ずること、
つまり、広く通用する状態のこと、

と書くのだけれど、

実際のところ、

“フツウ”を使う時、それは
我という人間の偏見に満ちている。


ごく当たり前だと思っているフツウは、あなたからみる世界では
普遍のことのように見えているだけで、
他人から見ればそうではない。


フツウ、という言葉を多用する人というのは、

自分から見える世界が、
世界そのものだと勘違いしているのではないだろうか。


「普通そんなこと言う?」
「普通じゃないよ」


という時、それは、
普通=多くの人が当たり前としている、
という言葉を標榜することで、


自分の主張は、世間が述べることなのだ、と自分の主義主張を正当化し相手を異端とすることとなる。


まあ、そもそも、
世間、という言葉だって、
“フツウ”じゃないんだけどさ。


ほら、太宰治が『人間失格』の中で
言ってたじゃない。


ー これ以上は、世間が、ゆるさないからな ー

ー 世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数のことでしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。ー

ー 「世間というのは、君じゃないか」ー

ー世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう。ー

とね。


 “フツウ”という言葉だって、
普遍なのではない。



 “あなた”がそう思っていることを、
それが世間の意見なのだと思い込んで、世の常識なのだと無意識でも意識的でも思い込んでいて、
皆がそうなのだ、と自分は正しいと思いたいだけなのよ。


 私はその考えを曲げたくない。


 だからこれからも、違和感を
感じたままでいたい。

 そして、自分の口が思わず、
相手に対して、
上のような意味で
フツウと言ってしまう前に、
気をつけていきたい。

普通、という言葉が悪いのではない。


偏見や相手を傷つけたり蔑めるための
フツウという言葉の用い方が、
相手を傷つけ、無駄な諍いをうむ。


 そうしないために
必要なのはやはり、

私たち人間は、
家族でも恋人でも友人でも、

分かり合えないのだという前提に、
立つことなのだと思い直した、



#フツウ

#普通ってなに

#世間とは

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